田中不二麻呂(読み)たなかふじまろ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中不二麻呂」の意味・わかりやすい解説

田中不二麻呂
たなかふじまろ
(1845―1909)

明治前期、教育制度草創期の教育行政家。名は不二麿とも書く。1879年(明治12)の「自由主義」的な第一次教育令制定を推進した。尾張藩出身。同藩の勤皇運動に参加、頭角を現し1867年(慶応3)参与職となり中央政界へ進出。1869年大学校御用掛として文部行政に参画する。1871~1873年岩倉遣外使節団の文部担当理事官として欧米教育制度を調査し、『理事功程(りじこうてい)』を編纂(へんさん)。以後「民衆自奮」に待ち、それを促す漸進的な教育行政観、学校での知育と歴史教育による愛国心教育、家庭教育による道義心の育成という教育観に立つ改革を推進した。1874年文部大輔となり実質上の責任者として空論的な『学制』の現実化に努めた。町村単位の学区編成、学務委員の選挙制、就学期間の弾力化を内容とする第一次教育令の立案施行尽力。主に天皇側近グループや地方官から「アメリカかぶれの自由主義者」との批判を浴び、1880年司法卿に転出した。その後枢密顧問官司法大臣などを歴任した。

[森川輝紀]

『森川輝紀著『教育勅語への道』増補版(2011・三元社)』

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関連語 教育勅語 神田

改訂新版 世界大百科事典 「田中不二麻呂」の意味・わかりやすい解説

田中不二麻呂 (たなかふじまろ)
生没年:1845-1909(弘化2-明治42)

明治期の政治家。1872年(明治5)の〈学制〉のころから79年ごろまで文部省にあって教育政策,教育行政を中心的に進めた。尾張藩士。1869年大学校御用掛となり,71年文部大丞のとき欧米を巡視,帰国後《理事功程》をまとめた。74年文部大輔となり,以後,79年ごろまで欠員がちだった文部卿にかわり省務を管理し,学制実施など教育行政の実質的な最高責任者であった。1876年教育調査で渡米,《米国学校法》などの報告書を刊行,欧米教育制度についての知識から学制創設期の教育制度を論じ,79年〈教育令〉の基礎となる〈日本教育令案〉を起草した。80年司法卿に転じ,81年参事院副議長,84年イタリア特命全権公使,87年スペインなどの公使となり,90年に帰国後は枢密顧問官,司法大臣などを歴任した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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