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田中不二麻呂 たなか・ふじまろ

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朝日日本歴史人物事典の解説

田中不二麻呂

没年:明治42.2.1(1909)
生年:弘化2.6.12(1845.7.16)
明治初期の教育行政家,政治家。尾張(名古屋)藩士の長男として生まれる。明治2(1869)年大学校御用掛,4年には文部大丞となる。この年岩倉具視遣外使節に理事官として随行し,欧米教育制度調査に当たり,『理事功程』をまとめる。7年から11年5月までは文部大輔として文部卿が欠員のなかで,実質的な文部行政の最高責任者として尽力する。この間米国フィラデルフィア博覧会につき再度教育事務取調のため渡米する。欧米の教育制度に関する豊富な知識をもとに,12年に学制を廃止して教育令を制定する。教育令は自由主義的教育法令といわれ,教育行政の地域分権化などを推進した。しかし,田中は翌13年には司法卿に転出し,同年,同令は中央集権的な教育権限を強化した教育令に改正された。田中はこれ以後文部行政にかかわることはなかった。枢密顧問官,司法大臣などを歴任する。<参考文献>西尾豊作『子爵田中不二麿伝』,森川輝紀『近代天皇制と教育』

(中野実)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たなかふじまろ【田中不二麻呂】

1845‐1909(弘化2‐明治42)
明治期の政治家。1872年(明治5)の〈学制〉のころから79年ごろまで文部省にあって教育政策,教育行政を中心的に進めた。尾張藩士。1869年大学校御用掛となり,71年文部大丞のとき欧米を巡視,帰国後《理事功程》をまとめた。74年文部大輔となり,以後,79年ごろまで欠員がちだった文部卿にかわり省務を管理し,学制実施など教育行政の実質的な最高責任者であった。1876年教育調査で渡米,《米国学校法》などの報告書を刊行,欧米教育制度についての知識から学制創設期の教育制度を論じ,79年〈教育令〉の基礎となる〈日本教育令案〉を起草した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田中不二麻呂
たなかふじまろ
(1845―1909)

明治前期、教育制度草創期の教育行政家。名は不二麿とも書く。1879年(明治12)の「自由主義」的な第一次教育令の制定を推進した。尾張藩出身。同藩の勤皇運動に参加、頭角を現し1867年(慶応3)参与職となり中央政界へ進出。1869年大学校御用掛として文部行政に参画する。1871~1873年岩倉遣外使節団の文部担当理事官として欧米教育制度を調査し、『理事功程(りじこうてい)』を編纂(へんさん)。以後「民衆自奮」に待ち、それを促す漸進的な教育行政観、学校での知育と歴史教育による愛国心教育、家庭教育による道義心の育成という教育観に立つ改革を推進した。1874年文部大輔となり実質上の責任者として空論的な『学制』の現実化に努めた。町村単位の学区編成、学務委員の選挙制、就学期間の弾力化を内容とする第一次教育令の立案・施行に尽力。主に天皇側近グループや地方官から「アメリカかぶれの自由主義者」との批判を浴び、1880年司法卿に転出した。その後枢密顧問官、司法大臣などを歴任した。[森川輝紀]
『森川輝紀著『教育勅語への道』増補版(2011・三元社)』

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