1872年(明治5)8月3日全国に公布した日本最初の近代的学校制度を定めた法規。71年12月に任命された仏学者箕作麟祥(みつくりりんしょう)ら、主として洋学者よりなる学制取調掛により、欧米の学制を参考に起草され、72年3月太政官(だじょうかん)に上申される。しかし、学制実施経費の問題で公布は遅れた。学制の理念は72年8月2日の太政官布告学制「被仰出書(おおせいだされしょ)」に明らかである。学制は、封建時代の儒教的為政者教育の理念を否定、四民平等の原則にたち「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」という抱負をもって、個人主義、実学主義を教育の原理とし、「人々自ら其(その)身を立て其産を治め其業を昌(さかん)にして以(もっ)て其生を遂(とぐ)る」こと、いいかえれば、全国民に自立自営の能力を養う実学教育を学校教育の目的だとする。しかし、教科の内容は欧米の翻訳が多かった。学制の内容は、まず「全国ノ学政ハ之(これ)ヲ文部一省ニ統(す)フ」と教育の国家管理の原則を明確にし、ついで学区、学校、教員、生徒、海外留学生、教育行政など、発布当時109章の規定よりなり、学校経営は授業料と学区住民の負担を原則とするところに、財政の特色があった。
学区は全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に区分。全国に8大学、256中学、5万3760小学校の設立が予定されていた。教育行政は一般行政から独立し、大学区に督学局、中学区に学区取締12~13名を置き、各人が数小学区を分担して、就学、学校設立、経費運営の事務にあたる。学区は行政単位でもあった。学校は下等、上等小学校(各4年)、下等、上等中学校(各3年)、大学(年限無規定)。そのほか師範学校、のちに専門学校、外国語学校などが加わる。小学校は正規の学校以外に女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾をその範囲に数え、中学校も正規の中学校以外に工業学校、商業学校、諸民学校(定時制)などを含む。学制の実施は、小学校の普及と就学強制、教員養成の充実を目標に進められ、一定の成果をあげたが、小学校の設立、維持経営費用は当時の民衆の経済能力には負担過重で、かつ町村財政を圧迫したほか、授業内容が欧米模倣の教科書を用いた結果、民衆の生活現実と一致せず、また新教科を教えうる教員も少なく学校教育は著しく形式化して民衆の反感を買った。文部省もこのような教育事情を反省し、実情を調査。その調査に基づき1877年ごろには学制の実施を中止、79年から民衆の生活現実と小学校教育との一致を重視する教育令に切り換えた。
[本山幸彦]
『井上久雄著『学制論考』(1963・風間書房)』▽『倉沢剛著『学制の研究』(1973・講談社)』▽『尾形裕康著『学制実施経緯の研究』(1963・校倉書房)』
〈学校制度〉の略称として用いられる場合もあるが(学制改革論など),歴史的には,1872年(明治5)から翌73年にかけて数次にわたり文部省布達をもって公布された,日本最初の全国規模での施行を目ざした教育制度法令の名称。1871年廃藩置県直後に創設された文部省は,日本の近代化の早急な実現を目ざす基本的手段の一つとして,まず全国規模での学校制度の立案を計画し,71年12月箕作麟祥ら洋学者を中心とする12人の〈学制取調掛〉を任命し,翌72年1月には大綱を決め3月下旬案文をととのえて太政官に上申し,6月下旬にその決裁を得て,8月3日文部省布達をもって最初の109章(条)を公布し,以後73年7月までに全213章を公布した。太政官での文部省上申案の審議をめぐり,岩倉使節団の訪欧米中に重大な国内改革をすべきでないとする井上馨,板垣退助らと,一挙に〈学制〉の公布を目ざす大隈重信,大木喬任らとの対立があり,また太政官の裁可後も教育への国庫補助金額をめぐって大蔵・文部両者の折合いがつかず,2ヵ月延長したうえ,該当条文字句を欠字のまま公布をみた。このように,きわめて短時日のうちに起草され,政府部内での対立を含んだままで制定されたのである。学制公布の前日にその趣旨を説明した太政官布告(学制序文,学事奨励に関する被仰出書ともいう)が発せられ,封建教学を否定し,個人の立身治産昌業を直接の目的とし,四民平等で女性をも対象とした近代的教育理念が示された。全国を一般行政区画とは異なる大,中,小の学区に区分し,各学区に学校を設立する計画(8大学,256中学校,5万3760小学校)であり,小学校は満6歳入学で上下2等各4年,中学校は14歳入学で上下2等各3年とし,これに大学・師範学校・専門学校を加えた学校体系を示し,その教育内容は欧米教育に範をとるものであった。教育費は受益者負担とし,官立学校を除いて原則として各学区内人民の共同負担とされた。これらの学校は,大学区ごとの督学局のもと各府県とその任命する学区取締によって管理されるとした。公布翌年(1873)から文部省・地方官の督励強制により全国で施行され,75年中に約2万5000の小学校,各大学区・府県に90の師範学校が設立されたが,他の学校は計画どおりには進まなかった。強制的な施行と経費の民費依存とから,民衆の反発や抵抗に出会ったため,文部省は77年からその改正に着手し,79年9月学制を廃して教育令を公布するに至った。
→教育令
執筆者:佐藤 秀夫
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日本の近代学校制度に関する初の総合的基本法令。1872年(明治5)8月公布。前年に設置された文部省が,欧米先進諸国の教育制度を参考に立案。大・中・小の学区,学校,教員,生徒試業,海外留学生,学資などを定めた。学制の理念は太政官布告(学制序文・被仰出書(おおせいだされしょ))で従来の身分的学校を廃し全国民が就学すべきこと,実学思想,個人の立身出世の思想などが表明された。学区には学区取締がおかれ大学・中学・小学を設けることとされたが,おもに小学校の設置に力が注がれた。しかしその強引な実施や過重な経費負担,教育内容の国民生活との隔たりなどにより国民の不満は大きく,79年の教育令公布にともない廃止された。
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…現在の学士制度は欧米の大学卒業者に与えられるバチェラーbachelorの制度を移入したものである。しかし,日本の大学制度の中に学士制度があらわれたのは1872年(明治5)の〈学制〉の中であり,この時は古代の律令制度にならって,博士(はかせ),得業士と並んで大学卒業生への学位の一つとされた。東京大学の創立(1877)以降,欧米大学の制度にならった学士制度が実施されたが,この時も,学士は学位であり,高い威信をもつものとされた。…
…前者の学区の典型はアメリカにみられるが,それは一般行政区域とは別に設けられる教育行政区域で,この学区school districtに教育委員会が設置される。これと同様ではないが,日本では1872年(明治5)の〈学制〉で,一般行政区域とは別建ての〈学区〉が設けられたことがある。全国を8大学区に分け,一つの大学区を32中学区に,さらに一つの中学区を210小学区にそれぞれ分割するという制度がそれであった。…
…ジロンド派に属し革命後の教育計画をたてようとしたコンドルセは,教育の自律性確保のため,教育を宗教的権威から独立させると同時に行政的権力からも独立させようと試み,教育行政権を学者・知識人の互選による国立学術院にゆだねるとの構想をたてた。学校は小学校,中学校,アンスティテュinstitut(社会の指導層の養成機関),リセlycée(大学),国立学術院(学術研究のほか,公教育の監督・指導を担当)から成るとし,無償とするほか,貧困家庭の子どもの優れた者のために奨学制度を構想した。これらの構想は,革命政府の下では実現されなかったが,教育を権利としてとらえ,学校教育の世俗性や無償をめざすことは,その後,近代教育の原則として認められるようになった。…
…広義には,それ以降1947年3月学校教育法により再び大学から幼稚園までの諸学校が総合規定されるまでの間に公布された,学校種別単行勅令の総称。日本において,近代学校発足当初は学制(1872‐79),教育令(1879‐86)と諸種の学校制度を単一の法令で規定していたが,1885年内閣制度の成立にともない初代文部大臣に就任した森有礼は,政治,経済,社会の今後の変動を予想して,学校制度の追加,修正のたびに大規模な法令改訂を要する単一法令方式に替えて,学校種類ごとに各別の単行法令方式を採用した。立憲制の成立(1889),教育勅語の発布(1890)にともなう教育政策の変化を反映して,森文政期の学校令は1890年代に小学校令(1890)をはじめとして次々に改正され,その後日本の近代化の進展に応じて高等学校令(1894),師範教育令(1897),中学校令,高等女学校令,実業学校令(いずれも1899),専門学校令(1903)等が相次いで公布された。…
…旧教育委員会法(1948年7月~1956年6月)のもとでは,一般地方財政中の教育財政の独立性を高めるために,教育委員会による教育予算原案の送付および独自予算案の議会への提案が認められていた。 日本における公教育制度の出発点となった1872年(明治5)の学制では,教育は市民の私事であるとの理念のもとに教育費は民衆の私的負担が原則とされたが,同時に文部予算の半ばが帝国大学の維持にあてられ,また小学校に対する国家補助金が設けられた。教育施設の経費について設置者の負担を原則とし(設置者負担主義),義務教育学校は市町村を,中等教育諸学校は道府県を,高等教育諸学校は国を設置者とするなど,教育財政制度の原則はほぼ1890年の第2次小学校令によって確立する。…
…〈学制〉(1872)に代わって1879年9月に公布された総合的教育基本法令。80年12月,85年8月と2次にわたって改正され,86年諸学校令の制定により廃止された。…
…明治期の政治家。1872年(明治5)の〈学制〉のころから79年ごろまで文部省にあって教育政策,教育行政を中心的に進めた。尾張藩士。…
…また文化振興策として学者文化人の団体,東京学士会院(後の日本学士院)の設立を示唆したほか,76年フィラデルフィアのアメリカ独立100年期博覧会に出張して日本教育の進展を紹介した。〈学制〉の画一的施行には批判的であり,77年〈学監考案日本教育法〉を提出して〈学制〉改正構想を示した。79年9月の〈教育令〉は,その示唆によるところが大きい。…
…幕末の海外留学は,江戸時代の文武の国内遊学・修行の旅の伝統を背景とし,新たに西洋の軍事技術の吸収,海外情勢の把握(〈夷情探索〉)が目的となった。明治になると,新政府は近代化と富国強兵のために西洋文明の大規模な導入をめざし,御雇外国人の招聘・雇用とともに留学派遣を重視し,70年(明治3)には〈海外留学規則〉を制定し,さらに72年の〈学制〉では条文の3分の1もが留学にあてられた。これは当時の世界の教育法規のなかでもきわめて異例のことである。…
※「学制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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