田茂山村(読み)たもやまむら

日本歴史地名大系 「田茂山村」の解説

田茂山村
たもやまむら

[現在地名]水沢市羽田町はだちよう羽田町久保はだちようくぼ羽田町宝生はだちようほうしよう羽田町宝柳木はだちようほうりゆうぎ

鶯沢うぐいすざわ村の北、北上川左岸に位置し、江刺平野南端の沖積層地帯に立地。北端近くで伊手いで川と人首ひとかべ川が合流して北上川に注ぐ。両川の対岸は土谷つちや村・二子町ふたごまち(現江刺市)で、当村北部から二子町村にかけての地域に延暦八年(七八九)の戦場「巣伏村」(「続日本紀」同年六月三日条)を比定する説がある。地名は、鋳物師及川氏が気仙けせん郡田茂山(現大船渡市)から当地に移住、それに伴って名付けられたと伝えるが確かでない。同氏来住後、当地では鋳物業が盛んとなり、田茂山鋳物として知られた。

当地は葛西氏没落ののち伊達氏領(仙台藩領)となり、年月日未詳の伊達領内領知日記(伊達家文書)によると、「たも山」九貫七二文は大和田右馬助の給地であった。寛永一九年(一六四二)の田茂山村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方二一町七反余・代二六貫一六六文、畑方一一三町七反余・代三三貫九〇三文。正保郷帳では田方六貫八七七文・畑方二三貫三七〇文、ほかに新田高一七貫六三六文。「安永風土記」では田三二貫三七一文・畑三四貫三七七文で、うち蔵入五七貫七一〇文・給所九貫三八文。小名は草井沼くさいぬま麦谷むぎや小谷木こやぎ・久保・宇南うなん樋口といのくちもり荒川あらかわあわ中袋なかぶくろの一〇、屋敷名数一五、人頭一三三・家数一四三・人数七三四、馬八九。舟三一艘があり、うち一〇艘は御穀、一八艘は大刈子、三艘は刈子。


田茂山村
たもやまむら

[現在地名]大船渡市盛町さかりちよう

盛川の河口付近の西岸に位置し、南は大船渡村、北は猪川いかわ村、東は赤崎あかさき村。浜街道と盛街道が通り、盛宿がある。田母山たもやまとも記される。当村・猪川村赤崎村立根たつこん村・日頃市ひころいち村・大船渡村の六ヵ村は盛六郷と称され、盛の地名は古くは佐狩さかりとも書いたとされる。宝暦一一年(一七六一)の「気仙風土草」所収の猪川長谷ちようこく寺観音堂の上梁文には「佐狩郷」の長国ちようこく寺が江瀬兵庫平重矩により元亀三年(一五七二)二月一一日再興されたと記され、寛永一〇年(一六三三)の石母田安頼書状(伊達家文書)に「盛」とみえるから、おおむね近世以後、盛と表記が固定したと思われる。また「阿曾沼興廃記」などにみえる「十八里」はサカリの古体仮名の表記である。そのほか盛の別称とされるものとして、猪川長谷寺観音堂の天徳四年(九六〇)銘の絵馬に佐倉里さくらり、享保一七年(一七三二)成立の浄願じようがん寺の縁起(浄願寺文書)高斜こうしや郷佐倉里がみえる。

正保郷帳に村名がみえ、田四〇貫五八八文・畑三貫八三〇文、ほかに新田三四五文があり、水損と注記される。宝永二年(一七〇五)人数改では総人数六一三、うち名子四・水呑二五、鉄砲数四(気仙史料)。「封内風土記」の家数約一二八、下田茂山・山下入やましたいりの小名をあげ、粟・米および雑穀などの貯穀用の蔵四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android