日本歴史地名大系 「畑木村」の解説 畑木村はたきむら 岡山県:阿哲郡哲西町畑木村[現在地名]哲西町畑木大竹(おおたけ)村の北に位置し、神代(こうじろ)川が流れ東城(とうじよう)往来が通る。集落は同往来沿いの青谷(あおや)・四日市(よつかいち)・住吉(すみよし)などに散在。西は備後国福代(ふくしろ)村(現広島県比婆郡東城町)。吉備津神社の流鏑馬料足納帳によると、康正三年(一四五七)「はた木」では一貫文を納入している。寛永備中国絵図に村名がみえ、高四〇一石余、山崎家治先知とある(以後の領主の変遷は大野部村に同じ)。正保郷帳でも同高。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)では古高七五四石余・新高九七九石余。 畑木村はたきむら 千葉県:市原市畑木村[現在地名]市原市畑木・青葉台(あおばだい)姉崎(あねがさき)村の東にある。元禄郷帳に村名がみえ、高二〇四石余で、村高は幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三四で、旗本林領。文政八年(一八二五)同氏が大名となったことに伴い貝淵藩(のち請西藩)領となり、幕末に至る。享和三年(一八〇三)人馬足役をめぐり小前百姓が騒動を起こし、百姓代が詫びを入れたものの越訴となり、内済となった後この一件の路用負担をめぐって騒動が再発、領主の吟味で百姓代が小前百姓の訴えを取次がないふりをしながら地頭への直訴をあおるなどの動きが露見し、一人は手鎖・宿預け(医王寺・千手院の仲介で放免)、他一人は御叱りとされた(高石家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by