医王寺(読み)イオウジ

デジタル大辞泉 「医王寺」の意味・読み・例文・類語

いおう‐じ〔イワウ‐〕【医王寺】

福島市飯坂町にある真言宗豊山派の寺。山号は瑠璃光山。天長3年(826)、空海の開山とされ、中興は、藤原秀衡の臣佐藤基治。境内に基治、源義経の臣佐藤継信忠信の墓がある。
石川県加賀市にある真言宗の寺。山号は国分山。日本三薬師の一。開基は行基と伝える。

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精選版 日本国語大辞典 「医王寺」の意味・読み・例文・類語

いおう‐じイワウ‥【医王寺】

  1. 福島市飯坂町平野にある真言宗豊山派の寺。山号は瑠璃光山。鯖野の薬師と通称。天長年間(八二四‐八三四弘法大師の開基と伝えられる。境内に源義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟と親の元(基)治夫妻の碑石がある。

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日本歴史地名大系 「医王寺」の解説

医王寺
いおうじ

[現在地名]相知町大字黒岩

黒岩くろいわ集落の南東の山麓にある。曹洞宗で芙蓉山と号す。本尊薬師如来は丈約一・二五メートルの平安期の木彫像。永徳三年(一三八三)創建。開山は妙融。中興開山は拙叟融能。最初浦田山と号し、のち瑠璃光山と称した。

中世には福聚ふくしゆう寺(現厳木きゆうらぎ町)・宝泉ほうせん(現伊万里市)など末寺三九寺をもつ巨刹で、波多氏支配の頃は寺領四五〇石を有し、本間一二間四方の本堂や七堂伽藍・勅使門がある大寺院であった。


医王寺
いおうじ

[現在地名]東城町塩原

いし神社から約三〇〇メートル西南の小高い丘の上にある。多飯山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。もと菅の徳雲すげのとくうん寺末。

「芸藩通志」および寺伝によれば、古く多飯が辻おおいがつじ山の中腹に伯耆の天台宗大山だいせん(現鳥取県西伯郡大山町)の末寺として開創されたと伝え、長く天台修験の道場として栄えたが、戦国時代に無住となり廃寺同様になっていたのを、塩原しおはら村三代目の庄屋の瀬尾多右衛門が再興を発願し、現在地に新しく伽藍を建立、天和元年(一六八一)徳雲寺に依頼して旧寺から本尊を移し迎え、開山に徳雲寺八世の天庵(大奥徹通禅師)を据えて、田畑山林を寄進、曹洞宗となったという。


医王寺
いおうじ

[現在地名]福島市飯坂町平野 寺前

瑠璃光山と号し、真言宗豊山派。本尊薬師如来。佐場野さばの薬師とも通称され、本尊は信達十二薬師の一つとして尊崇される。天長三年(八二六)空海が薬師如来像を安置して草庵を建てたことに始まると伝える(「略縁起」寺蔵)。平安時代末、信夫しのぶ庄司佐藤一族の菩提寺とされたが、文治五年(一一八九)大鳥おおとり城落城により衰微したという。天文一六年(一五四七)七月二三日の伊達稙宗宛行状(水沢下飯坂文書)に「医王寺通東佐葉野郷」とみえ、同地の在家一宇が下飯坂藤三郎(宗長)に安堵されている。


医王寺
いおうじ

[現在地名]粟野町北半田

さわにあり、広大な境内を有する。東高野山弥勒院と号し、真言宗豊山派。本尊薬師如来。勝道の開山と伝え、巡錫中の空海が当寺にとどまり、自身の坐像と不動明王像を刻して納めたという。その後寺運大いに栄え、正中元年(一三二四)西方景泰が帰依し、七堂伽藍を再建し寺領を寄付したといわれる。正長二年(一四二九)銘の銅製鰐口(県指定文化財)があり、「下野国西方医王寺金堂鰐口 住持之沙門妙算願主国吉」と刻されている。


医王寺
いおうじ

[現在地名]越生町上野

南東に毛呂もろ川を望む秩父山地東端台地に立地。瑠璃山東園院と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。元禄年間(一六八八―一七〇四)に記された由緒沿革(寺蔵文書)によれば、当地を訪れた行基が自刻の薬師如来像などを草堂に安置したのに始まるという。その後、日頃薬師如来を尊信していた児玉河内守家行が平治の乱に参陣して無事越生に帰着後、永暦元年(一一六〇)当寺を再建、祈願所とし太刀一振を納めた。


医王寺
いおうじ

[現在地名]小坂井町篠束 郷中

豊川下流右岸の標高八メートルの台地にある。天牛山と号し、曹洞宗。寺伝によると鳳来ほうらい(現南設楽郡鳳来町)と草鹿砥公宣卿の故事により、文武天皇の勅命で薬師如来を安置して大宝元年(七〇一)に創立されたという。延暦年中(七八二―八〇六)火災によって伽藍が失われ、桓武天皇によって再建された。長寛年中(一一六三―六五)再び焼失した後、再興の力なくわずかに小堂が建立されたというほかはわからない。


医王寺
いおうじ

[現在地名]磐田市鎌田

磐田原台地の支陵、鎌田かまだ丘陵の南部にある。鎌田山と号し、真言宗智山派。本尊は薬師如来。寺伝によると奈良時代天平年間(七二九―七四九)の開山といい、往古は寺域に三六坊があったとされる。現山梨県塩山市放光ほうこう寺所蔵の大般若経巻一四六の奥書には文明一五年(一四八三)三月、「遠州山名郡鎌田医王寺住僧英海書之」、巻五九九の奥書には同年四月五日「右筆山名郡鎌田医王寺舜全」とあり、当寺の英海と舜全が大般若経の書写を行った。


医王寺
いおうじ

[現在地名]鳳来町長篠 弥陀前

長篠ながしの城跡の北八〇〇メートルの谷あい、旧地名篠久保しのくぼにある。長篠山と号し曹洞宗。本尊薬師如来。開山は克補契嶷。永正一一年(一五一四)の創立という(大洞山泉竜院史)。本寺は泉竜せんりゆう(現新城市)である。永禄年間(一五五八―七〇)の今川氏真寄進状(東大史料編纂所蔵)によると茶湯料五貫文を寄付されている。また天正三年(一五七五)長篠城主奥平貞昌から田一町歩を寄進、慶長八年(一六〇三)四一石余の朱印地を付せられている。


医王寺
いおうじ

[現在地名]南知多町大井

真向まむかいの地にある。宝珠山と号し、真言宗。本尊薬師如来。「雑志」によれば、大井おおい港西方ほとけ山山中に神亀二年(七二五)行基が開創し、盛時には一山一二坊を擁した。弘仁五年(八一四)弘法大師が寺運を振興、仏山山上の泉、明星の水みようじようのみずは大師のうがったものと伝える。一八〇貫文の大寺領を有し、岩屋いわや寺とともに南知多の双峰と謳われたが火災で焼失し、建暦二年(一二一二)現在地に再建した。


医王寺
いおうじ

[現在地名]久留米市寺町

てら町の北西端にある。瑠璃光山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来。元和七年(一六二一)有馬豊氏から快宣が寺地を拝領、藩主祈願寺とされた(寛文十年寺社開基・「校訂筑後志」)。慶長五年(一六〇〇)開基ともいう(「寺院明細帳」久留米市誌)。明暦三年(一六五七)住持は嵯峨大覚さがだいかく(現京都市右京区)から権大僧都法印を補任され、寛文一〇年(一六七〇)当時本堂と聖徳太子堂があった(寛文十年寺社開基)


医王寺
いおうじ

[現在地名]川内町北方 宝泉

北方きたがたの東北方の宝泉にある。真言宗善通寺派、苔谷山と号す。本尊は薬師如来。高野山金剛峯寺を本山とする。

寺伝によれば、大宝二年(七〇二)行基の開基で、医王山宝樹院と号したが、神亀三年(七二六)聖武天皇の詔勅により官寺となり、大宝坊と称した。大同二年(八〇七)正月空海が金錫をとどめ、延久三年(一〇七一)には源頼義が堂宇を再建したと伝える(新編温泉郡誌)

本尊の厨子は間口一・〇三メートル、奥行〇・七三メートル、棟高二・八八七メートル、屋根は入母屋造である。昭和三七年(一九六二)の解体修理で隅木・斗裏から天文三年(一五三四)作の銘が発見され、慶長一三年(一六〇八)の大風で破損し修理したことも明記されている。


医王寺
いおうじ

[現在地名]吉田町立間

立間村の南部、林に囲まれた山腹に位置する。如意山宝珠院と号し、天台宗。本尊薬師如来。

開基は明らかでない。棟札によると応永二二年(一四一五)に法花津氏清原勝円が上日を招いて再興している。寺伝によると再興までは兵乱のため衰退しており、各宗の僧侶が住したとある。再興後再び荒廃し、伝記や宝物なども散逸する状態となった。伊達宗純は吉田藩入封後の一貫した政策でもあったと思われるが、当寺が御殿の鬼門にあたることもあって再興に力を尽した。延宝九年(一六八一)護摩堂・客殿(寺伝によると天和元年護摩堂、同二年客殿)が建設され、天和三年(一六八三)日吉山王宮が造営された(「吉田古記」大乗寺本)


医王寺
いおうじ

[現在地名]福山市鞆町後地

江浦南えのうらみなみにあり、桃林山と号し、真言宗善通寺派。本尊薬師如来。天長年間(八二四―八三四)空海の草創と伝え、文禄年間(一五九二―九六)に真養、寛文年間(一六六一―七三)に宥尊がそれぞれ再興したと伝える。「鞆記」には、当寺の薬師如来への信仰が盛んで、正保年中(一六四四―四八)後地平うしろじひら村の漁師が鐘を寄進したことが記されている。また、能登原のとはら(現沼隈郡沼隈町)に可霊山慈眼じげん寺という中納言藤原基頼室の物語を伝える尼寺があったが、天正年中(一五七三―九二)廃寺となり当寺に合したという(西備名区)


医王寺
いおうじ

[現在地名]山中町薬師町

温泉街を一望する高台にある。国分山と号し、高野山真言宗。薬師如来を本尊とするため「お薬師さん」とよばれ、所在地名もこれによる。山中護持明院とも称した(灯明寺過去帳)。寺伝によると行基が開いたが承平年間(九三一―九三八)兵火で焼失、建久年間(一一九〇―九九)長谷部信連が再興したという。「梵舜日記」慶長八年(一六〇三)九月一二日条に京都神龍院梵舜が、吉田兼見の女房衆と山中に湯治に来て「薬師硫黄寺」へ参詣したことがみえる。寺はもと薬師やくし山の山麓にあったが、寛文二年(一六六二)中腹の現在地に移った(灯明寺過去帳)


医王寺
いおうじ

[現在地名]金谷町金谷

洞善とうぜん院の東隣にあり、江戸時代には東海道の金谷宿本陣裏を流れる小川の北側にあった(分間延絵図)。金谷山と号し、曹洞宗。本尊は薬師瑠璃光如来。弘仁年中(八一〇―八二四)弘法大師が薬師如来を安置して開創したと伝え、初めは真言宗寺院として栄えた。文禄元年(一五九二)火災に遭い灰燼に帰したが、薬師如来像は焼失を免れたという。慶長元年(一五九六)洞善院二世祗徹により曹洞宗寺院として建立され、祗徹を開山とする。元禄五年(一六九二)六世観村が本堂とともに薬師堂を再建し、中興となる。


医王寺
いおうじ

[現在地名]伊香保町伊香保 香湯

伊香保神社の下にあり、湯泉山戒善院と号し、天台宗。本尊は薬師如来。寺伝によれば天正二年(一五七四)地元の土豪岸筑前介安兼の開基といい、開祖は中山良信と伝える。寛永年間(一六二四―四四)の創立といわれる湯前明神(伊香保神社)の別当寺湯泉寺はのちに当寺に合併し廃寺となった。文政一三年(一八三〇)の分限帳(千明文書)によれば三間半×四間の薬師堂(温泉神社)があり、屋敷の広さは東西三〇間・南北二〇間、四反五畝歩の薬師免をもち、そのほかに釣鐘堂・弥陀堂・護摩堂・観音堂・客殿・庫裏・湯坪・土蔵・屏重門・旅人長屋・貸店などがあり、一年間の賽銭は三五貫文ぐらいであった。


医王寺
いおうじ

[現在地名]福山市蔵王町

蔵王ざおう山麓の丘陵上にあるが、創建時には蔵王山の中腹阿弥陀あみだヶ峯にあり、現に平安時代の軒瓦や布目瓦が出土し、墓石なども現存する。真言宗大覚寺派、もと明王みようおう院末。寺伝によれば大治二年(一一二七)勅願により阿弥陀ヶ峯に建立され、薬師如来を安置、地の名によって阿弥陀山医王寺と号したという(西備名区)。のち崇徳上皇が讃岐国に流される途中、ゆかりの寺として立寄ったという伝説がある(同書)


医王寺
いおうじ

[現在地名]八千代町菅谷

薬壺山成就院医王寺と号し、真言宗豊山派。本尊不動明王。本堂脇に銀杏の大樹が茂る。「各村旧高簿」によれば菅谷すぎのや村内に七石の寺領があった。境内に薬師堂があり、秘仏の薬師如来を厨子内に安置し、十二神将を配置。現在の薬師堂は棟札によれば宝暦二年(一七五二)建立、大工は結城郡芳賀崎はがさき(現結城市)の湯本伊兵衛尉吉賢。


医王寺
いおうじ

[現在地名]八代市袋町

白雲山と号し、高野山真言宗、本尊薬師如来。通称足手荒神。「国誌」に「旧ハ松江村ノ中ニテ今ノ城下長丁筋ナリシト云、開基等不分明、後ニ耶蘇ノ為ニ破却セラレ、其迹薬師森ト称ス」とあり、小西行長によって焼かれたという。寛文二年(一六六二)松井寄之が石原いしわら丁に移して再建、同五年寄之室の崇芳院尼の願いにより現在地に再移転、以後松井家の祈祷所となり、当山派の山伏宝光院玄竜を住職にした。


医王寺
いおうじ

[現在地名]上越市大貫

金谷かなや山の山麓にあり、本尊大日如来、真言宗豊山派。安政五年(一八五八)の火災で古記録は焼失し、その歴史は不明。寺は県文化財に指定されている銅造如来坐像を管理している。この像は境内にある金谷薬師堂の本尊である。蝋型を用いた鋳銅像で、おそらく奈良時代後期に造られたものであろう。


医王寺
いおうじ

[現在地名]三好町三好 上

瑠璃光山と号し、浄土宗西山禅林寺派。長和元年(一〇一二)沢雲仁清によって開山された。本尊は阿弥陀如来。「三好町誌」によれば、文和四年(一三五五)善久が入定して西の原に善久塚を築いたといわれ、現在も善休ぜんきゆうという小字名が残る。


医王寺
いおうじ

[現在地名]新川町阿原 八幡

天栄山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。創始年月は不詳。往古、空海が自ら彫刻した薬師如来を安置し一宇を建立したものといい、もとは字医王寺にあり真言宗であった。慶長二年(一五九七)僧大岩(「雑志」は太岩法子とする)が旧地より現在地に移し、貞享四年(一六八七)寒全を招いて法地とし、元禄一五年(一七〇二)名古屋永安えいあん寺の七世豊淳を請じて中興開山とし、曹洞宗に改めた(雑志、徇行記、新川町誌)


医王寺
いおうじ

[現在地名]八幡浜市日土町 今出

瑠璃光山と号し、曹洞宗。

宇和旧記」によると昔は大寺であったらしく、養老元年(七一七)一夜で建立の由と伝え、昔は七堂伽藍が立ち並び、本尊薬師秘仏・脇立不動尊・毘沙門・十二神まで行基の作という。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「医王寺」の意味・わかりやすい解説

医王寺(福島市)
いおうじ

福島市飯坂町にある真言宗豊山(ぶざん)派に属する寺。山号を瑠璃光(るりこう)山といい、鯖野(さばの)の薬師(やくし)で親しまれている。826年(天長3)弘法大師空海の創立とされ、その本尊薬師如来は空海の自作といわれる。平安末期、佐藤基治(もとはる)(元治)が堂塔伽藍(がらん)を改築建立し、一族の菩提寺(ぼだいじ)として中興し大いに栄えた。基治の子、継信(つぐのぶ)、忠信(ただのぶ)は源義経(よしつね)の忠臣として有名で、当寺に墓所があるほか、そのゆかりの寺宝が多く蔵されている。また境内に当時の武勇をしのぶ芭蕉(ばしょう)の句碑「笈(おい)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙のぼり」がある。

[眞柴弘宗]



医王寺(石川県)
いおうじ

石川県加賀(かが)市山中温泉薬師町(やまなかおんせんやくしまち)にあり、高野山(こうやさん)真言宗の準別格本山。もとは山中護持明院(ごじみょういん)といわれた。日本三薬師の一つ。薬師如来(にょらい)の霊告によって温泉を発見した行基(ぎょうき)が、自刻の薬師如来を安置したのが草創の由来である。その後、一時廃れたが、源頼朝(よりとも)の家臣長谷部信連(はせべのぶつら)がふたたび湯の湧(わ)くのを発見し、地中からみつけた薬師如来を祀(まつ)る堂を建て、国分山(こくぶざん)医王寺とした。寺宝に『山中温泉縁起絵巻』2巻があり、また陶製の金剛童子立像は国指定重要文化財である。

[野村全宏]

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デジタル大辞泉プラス 「医王寺」の解説

医王寺〔福島県〕

福島県福島市にある寺院。真言宗豊山派。826年、空海の開山と伝わる。本堂本尊は大日如来、薬師堂本尊は薬師如来。「鯖野薬師」とも呼ばれる。

医王寺〔愛媛県〕

愛媛県東温市にある真言宗の寺院。本堂内に1534年建築の一間厨子と呼ばれる大型の厨子があり、国の重要文化財に指定されている。

医王寺〔栃木県〕

栃木県鹿沼市にある真言宗豊山派の寺院。山号は東高野山、院号は弥勒院。本尊は薬師如来。唐門、金堂などは県の重要文化財に指定。

医王寺〔岐阜県〕

岐阜県中津川市にある浄土宗の寺院。本尊は薬師如来。山中薬師とも呼ばれる。

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事典・日本の観光資源 「医王寺」の解説

医王寺

(滋賀県伊香郡木之本町)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

医王寺

(栃木県鹿沼市)
とちぎの景勝100選」指定の観光名所。

医王寺

(石川県加賀市)
日本三薬師」指定の観光名所。

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