せんじゅ‐いん‥ヰン【千手院・千寿院】
- 〘 名詞 〙
- ① 千手観音を本尊としてまつる堂。
- [初出の実例]「千手院に収めたる修理(すり)分の銭、百貫无し」(出典:日本霊異記(810‐824)中)
- ② 刀工の一派。奈良、東大寺の千手院谷(奈良市雑司町)に住んだ行信・重弘を祖とし、平安末期に興り、鎌倉時代を通じて隆盛をみた。
- [初出の実例]「これは大和のせんじゅゐんに作らせて秘蔵して持ちたれども」(出典:義経記(室町中か)四)
- ③ 千手院派の刀工の鍛えた刀。反(そり)が高く、鎬(しのぎ)の広いことが特徴とされる。銘のあるものは少なく、「千手院」とだけ銘したものが大部分である。千手院物。
- [初出の実例]「いわふたり・守り刀に千寿院」(出典:雑俳・あかゑぼし(1702))
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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千手院
せんじゆいん
[現在地名]佐久町大字平林
東と南に山を負い、西方は北流する千曲川に沿って平地が開けている。千曲川に沿って佐久甲州往還が通じ、東の山麓線に沿って、寺院前を新海神社の神幸道が通っている。
平林山津金寺千手院と称し、天台宗。上野国新田郡世良田の長楽寺末で本尊は千手観音。江戸時代佐久三三番観音霊場のうち一四番にあたる。
開基は慈覚大師と伝える。もと北八ヶ岳の大岳の麓堂古屋にあり(→上村)、それより高野町小山沢の寺久保に移って小山山津金寺と称し、更に平林の木伐窪に移り、のち現在地に移ったと伝承する。
千手院
せんじゆいん
[現在地名]佐倉市井野
前畑にある。稲野山と号し、真言宗豊山派。本尊千手観音。天平期(七二九―七四九)臼井の石神(現王子台)に創建されて蓮華王院金剛般若寺と称したとされる。のち千葉氏一族の帰依を受け、明徳三年(一三九二)常陸の澄秀が井野に移し、千手院と寺号を改めたという(印旛郡誌)。明治六年(一八七三)の火災で記録文書類を焼失し、由来を明確にすることはできないが、神崎町の神宮寺に伝わる大般若経奥書に永和二年(一三七六)六月二六日に臼井庄石神村蓮花院澄秀が書写したとあり、澄秀の活動が知られる。
千手院
せんじゆいん
[現在地名]備前市蕃山
蕃山集落の東にある寺。高野山真言宗、日光山正楽寺千手院と号し、本尊は千手観音。室町中期頃、新田新庄の名主・刀匠が熊野へ参詣したときの願文に、先達として勝楽寺南坊・中坊・東坊などの僧の名前がみえる(応永二一年三月三日「新田新庄熊野参詣者交名願文」和鋼記念館所蔵文書ほか)。宇喜多秀家の寺社再編による文禄四年(一五九五)一二月の備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写(金山寺文書)では正楽寺の寺領は一五石。寺伝によれば一三世紀末頃信賢が中国から青竜密場の霊土を持帰って寺院を建立、千手観音を祀ったのに始まり、盛時には寺内二四坊を数えたという。
千手院
せんじゆいん
[現在地名]関市西日吉町
安桜山西麓、宗休寺の北西に隣接する。大慈山と号し、曹洞宗。本尊千手千眼観音。明治初年の寺院明細帳(県立歴史資料館蔵)などによれば、正応元年(一二八八)兼常氏らは春日神社の北隣に千手院を創建して菩提寺とした。開基は壁天梵圭で、初め天台宗とされる。ただし、兼常系図(美濃刀大鑑)は八代兼常が元亀二年(一五七一)に開基建立したとする。元禄元年(一六八八)龍泰寺一七世天庵正尭を拝請開山とし、泰梁克玄が開法道場として再興。
千手院
せんじゆいん
[現在地名]盛岡市鉈屋町
国道三九六号の北に位置する。盛岡藩五代藩主南部行信が建立したという千手観音堂の境内にあった(「盛岡砂子」など)。妙法山と号し、天台宗。本尊は千手観音。元文城下図では、遠曲輪の堀から東へ流れ出す用水の南岸に千手院とみえ、南は鉈屋町の屋敷に接する。寺社修験本末支配之記(内史略)には「妙法山千手院 御水主丁境内拝領地 二人扶持」とある。
千手院
せんじゆいん
[現在地名]河辺町岩見字鍛冶屋敷
岩見川左岸にある。曹洞宗、両沢山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。寛永二年(一六二五)久保田寺町歓喜寺の報庵良恩の開山という(河辺町郷土誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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