コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

日向 にこう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日向
にこう

[生]建長5(1253).上総
[没]正和3(1314)
鎌倉時代の日蓮宗の僧。六老僧の一人。佐渡阿闍梨とも呼ばれる。比叡山で勉学したが,13歳で日蓮の門に入り,日蓮の佐渡配流にも従った。正応1 (1288) 年身延山を継ぎ,26年間在職。主著『金綱集』 (14巻) ,『高祖一期行状日記』『天目日向問答記』。

日向
ひゅうが

伊勢型戦艦」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

ひ‐な‐た【日向】

《「日の方(かた)」の意から》日光の当たっている場所。⇔日陰
物事の表面。表側。「陰日向のない人」

ひゅうが〔ひうが〕【日向】

旧国名の一。現在の宮崎県鹿児島県の一部にあたる。日州(にっしゅう)。
宮崎県北部、日向灘に面する市。良港細島(ほそしま)港があり、商業・工業・交通の要地ハマグリの殻で作る白碁石を特産。平成18年(2006)2月、東郷町を編入。人口6.3万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説

日向【ひうが】

日向(ひゅうがの)国

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日向 にこう

1253-1314 鎌倉時代の僧。
建長5年2月16日生まれ。日蓮門下六老僧のひとり。日向門流(身延門流)の祖。はやくから日蓮に随従し,師の死後,上総(かずさ)(千葉県)に妙光寺をひらく。正応(しょうおう)元年身延山久遠寺2世となり,波木井実長(はきい-さねなが)の助けをえて同寺の発展につとめた。正和(しょうわ)3年9月3日死去。62歳。上総出身。俗名は小林藤三郎実信。通称は佐渡阿闍梨(あじゃり),民部阿闍梨。著作に「金綱集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

日向

没年:正和3.9.3(1314.10.12)
生年:建長5(1253)
鎌倉時代の日蓮宗の僧。日蓮の六老僧(6人の高弟)のひとり。佐渡房,民部阿闍梨(高僧の称)とも呼ばれた。上総国(千葉県)藻原郷の武士の子として出生。幼少にして比叡山に学び帰郷,13歳のとき日蓮に師事した。常侍して師の佐渡配流にも従い,赦免後,斎藤兼綱の外護を得て上総藻原の妙光寺を開創,そこを拠点に布教。師の没後,身延に登り,学頭として門弟の教化に当たり,日興と共に身延の経営に専心した。しかし,やがて檀那波木井実長の信仰をめぐり日興と対立,日興の身延下山以後,波木井の外護のもと,身延久遠寺の基礎を築き,身延第2世の別当となった。晩年には,身延を日進に譲って藻原妙光寺に隠棲。その門流を日向門流あるいは身延門流という。著書に『金綱集』がある。同書は,日蓮から聴聞したことや自ら集めた経論類の要文から成り,当時の日蓮宗による他宗批判の大綱が知れる。<参考文献>身延山久遠寺編『身延山史』

(佐々木馨)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル大辞泉プラスの解説

日向

宮崎県日向市にある道の駅。国道10号に沿う。

日向

日本海軍の戦艦。伊勢型戦艦の2番艦。1917年進水、1918年就役の超弩級戦艦。のちに航空戦艦に改装される。フィリピン沖海戦などに参加。第二次世界大戦末期の呉軍港空襲により被弾して大破戦後浮揚され、解体された。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

にこう【日向】

1253‐1314(建長5‐正和3)
鎌倉時代の日蓮宗の僧。日蓮の直弟,身延山久遠(くおん)寺第2世。上総国茂原(千葉県)小林氏の出身と伝える。佐渡阿闍梨(あじやり)と称した。1276年(建治2)日蓮の旧師,安房清澄寺道善房死去のおりには,日蓮の書いた《報恩抄》をその墓前で代読した。82年(弘安5)日蓮が本弟子として指定した6人(六老僧)のうちにも加えられている。日蓮没後,その廟所である甲斐身延に登り,日興(につこう)とともに廟所に給仕し,学頭として門下の教育に当たったが,日興が日蓮在世以来の信奉者波木井(はきい)氏の信仰のあり方を批判して88年(正応1)身延を離山した後,身延の経営に当たった。

ひむか【日向】

日本神話における地名。九州南東部の地名であるが,記紀の伝承では必ずしも実際の場所を指すものではない。伊弉諾(いざなき)尊が黄泉国(よみのくに)のけがれを祓うためにみそぎをし,瓊瓊杵(ににぎ)尊が降臨した所が〈筑紫(つくし)の日向〉とされている。そこは〈朝日の直刺(たださ)す国,夕日の日照る国〉であり,現実の出雲ではなく神話的空間としての〈出雲〉(出雲神話)や〈黄泉国〉といった日の没する闇の国と表裏一対をなす神話的世界でもあった。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

ひなた【日向】

〔「日の方」の意〕
日の当たっている所。 ↔ ひかげ
[句項目]

ひむか【日向】

古く、「ひゅうが(日向)」の地方をさした称。 「馬ならば-の駒/日本書紀 推古

ひゅうが【日向】

旧国名の一。ほぼ宮崎県にあたる。ひむか。日州。
宮崎県中北部、日向灘に面する市。化学・砂糖工場が立地。ハマグリで作る白碁石が特産。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日向
にこう
(1253―1314)

鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧。三位房(さんみぼう)、佐渡公(さどこう)とも称される。上総(かずさ)国藻原(もばら)(千葉県茂原(もばら)市)の出身と伝えられる。幼少のときから日蓮のもとに投じて、つねに師に従って修学し、困苦をともにしたという。とくに身延山(みのぶさん)に隠棲(いんせい)した日蓮と、地方に住む信者との間を、手紙などをもってつなぐ重要な役割を果たした。1282年(弘安5)の日蓮入滅(にゅうめつ)に際しては、本弟子6人のうちの1人に選ばれ、後世に六老僧の1人として敬われている。日向の本拠は藻原の妙光(みょうこう)寺(現在は藻原(そうげん)寺)であるが、88年(正応1)に身延山久遠(くおん)寺(山梨県身延町)の住持に迎えられ、あとを日秀に任せてここに移った。領主の波木井実長(はきいさねなが)の助力を得て久遠寺の基礎を固め、藻原に隠棲して没した。[中尾 尭]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

367日誕生日大事典の解説

日向 (にこう)

生年月日:1253年2月16日
鎌倉時代後期の僧
1314年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の日向の言及

【御講聞書】より

…《日向記》とも称す。1278年(弘安1)から80年にかけて,日蓮の弟子日向(にこう)が日蓮の法華経の講義を筆録したものと伝えられるが,書誌学的・教学的面から後世の偽撰とされる。…

【久遠寺】より

…日蓮没(1282)後,その遺言により廟所が身延に置かれ,門弟の輪番による廟所への奉仕が制定された。しかし,やがて行われなくなり,日興(につこう)が主としてこれに当たり,日向(にこう)も身延に来て学頭を務めたが,身延の地を寄進した日蓮の檀越(だんおつ)波木井(はきい)実長と日興との間に不和が生じ,日興は88年(正応1)駿河に去ったので,日向が住持=貫首(かんず)となり,身延門流=日向門流の拠点とした。室町時代の貫首日朝は,堂宇を現在地に移し拡充したばかりでなく,その後嗣日意・日伝とともに,各地に身延門流の教線を伸ばし,それまでの波木井氏の氏寺的存在であった久遠寺を日蓮廟所を中心とする霊場寺院化していった。…

【高千穂】より

…また高く秀でた山,あるいは豊かな稲穂の山の意の普通名詞でもある。神話には〈日向(ひむか)の高千穂〉とあり,日向臼杵郡智保郷や日向と大隅にまたがる霧島山などが比定されてきた。しかし記紀の〈日向(ひむか)〉は日に向かった光明の地の意味でもある。…

【天孫降臨神話】より

…平定された葦原中国には,あらためて日神の孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降されることになる。皇孫はアマテラスの神言によって支配者的資格を授かったうえ,天忍日(あめのおしひ)命,天津久米(あまつくめ)命(大久米命)を先導とし,天児屋(あめのこやね)命太玉(ふとたま)命天鈿女(あめのうずめ)命石凝姥(いしこりどめ)命玉祖(たまのおや)命ら諸神を伴として日向(ひむか)の高千穂の〈くじふる嶽〉に天降る。そして日向の国に宮居を定めた。…

※「日向」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日向の関連キーワード宮崎県日向市東郷町八重原迫野内日向系神話(ひむかけいしんわ)宮崎県日向市東郷町山陰乙宮崎県日向市東郷町下三ケ宮崎県日向市財光寺往還町宮崎県日向市東郷町山陰己宮崎県日向市東郷町山陰甲宮崎県日向市日知屋古田町宮崎県日向市東郷町山陰戊宮崎県日向市東郷町山陰丁宮崎県日向市東郷町山陰庚宮崎県日向市東郷町山陰丙宮崎県日向市東郷町山陰宮崎県日向市財光寺沖町宮崎県日向市美々津町宮崎県日向市山手町宮崎県日向市向江町宮崎県日向市竹島町宮崎県日向市山下町宮崎県日向市江良町

日向の関連情報