ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
[没]正和3(1314)
鎌倉時代の日蓮宗の僧。六老僧の一人。佐渡阿闍梨とも呼ばれる。比叡山で勉学したが,13歳で日蓮の門に入り,日蓮の佐渡配流にも従った。正応1 (1288) 年身延山を継ぎ,26年間在職。主著『金綱集』 (14巻) ,『高祖一期行状日記』『天目日向問答記』。
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(佐々木馨)
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鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧。三位房(さんみぼう)、佐渡公(さどこう)とも称される。上総(かずさ)国藻原(もばら)(千葉県茂原(もばら)市)の出身と伝えられる。幼少のときから日蓮のもとに投じて、つねに師に従って修学し、困苦をともにしたという。とくに身延山(みのぶさん)に隠棲(いんせい)した日蓮と、地方に住む信者との間を、手紙などをもってつなぐ重要な役割を果たした。1282年(弘安5)の日蓮入滅(にゅうめつ)に際しては、本弟子6人のうちの一人に選ばれ、後世に六老僧の一人として敬われている。日向の本拠は藻原の妙光(みょうこう)寺(現在は藻原(そうげん)寺)であるが、1288年(正応1)に身延山久遠(くおん)寺(山梨県身延町)の住持に迎えられ、あとを日秀(1264―1334)に任せてここに移った。領主の波木井実長(はきいさねなが)(1222―1297)の助力を得て久遠寺の基礎を固め、藻原に隠棲して没した。
[中尾 尭 2017年9月19日]
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…《日向記》とも称す。1278年(弘安1)から80年にかけて,日蓮の弟子日向(にこう)が日蓮の法華経の講義を筆録したものと伝えられるが,書誌学的・教学的面から後世の偽撰とされる。…
…日蓮没(1282)後,その遺言により廟所が身延に置かれ,門弟の輪番による廟所への奉仕が制定された。しかし,やがて行われなくなり,日興(につこう)が主としてこれに当たり,日向(にこう)も身延に来て学頭を務めたが,身延の地を寄進した日蓮の檀越(だんおつ)波木井(はきい)実長と日興との間に不和が生じ,日興は88年(正応1)駿河に去ったので,日向が住持=貫首(かんず)となり,身延門流=日向門流の拠点とした。室町時代の貫首日朝は,堂宇を現在地に移し拡充したばかりでなく,その後嗣日意・日伝とともに,各地に身延門流の教線を伸ばし,それまでの波木井氏の氏寺的存在であった久遠寺を日蓮廟所を中心とする霊場寺院化していった。…
…また高く秀でた山,あるいは豊かな稲穂の山の意の普通名詞でもある。神話には〈日向(ひむか)の高千穂〉とあり,日向臼杵郡智保郷や日向と大隅にまたがる霧島山などが比定されてきた。しかし記紀の〈日向(ひむか)〉は日に向かった光明の地の意味でもある。…
…平定された葦原中国には,あらためて日神の孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降されることになる。皇孫はアマテラスの神言によって支配者的資格を授かったうえ,天忍日(あめのおしひ)命,天津久米(あまつくめ)命(大久米命)を先導とし,天児屋(あめのこやね)命,太玉(ふとたま)命,天鈿女(あめのうずめ)命,石凝姥(いしこりどめ)命,玉祖(たまのおや)命ら諸神を伴として日向(ひむか)の高千穂の〈くじふる嶽〉に天降る。そして日向の国に宮居を定めた。…
※「日向」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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