精選版 日本国語大辞典 「日向」の意味・読み・例文・類語
ひゅうが ひうが【日向】
ひ‐むかい ‥むかひ【日向】
ひむか【日向】
ひ‐な‐た【日向】
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宮崎県中部の市。2006年2月旧日向市が東郷(とうごう)町を編入して成立した。人口6万3223(2010)。
日向市中東部の旧町。旧東臼杵(ひがしうすき)郡所属。人口4889(2005)。江戸時代は一部天領を除き延岡藩領であった。周囲は山地で占められ,中心部を東流する耳川とその支流沿いに耕地が点在する。農林業が主産業で,畜産,養蚕をはじめ,シイタケ,米,ミカンなどの栽培が行われる。南東部の寺迫は古くから野菜の促成栽培の産地として知られる。日向延岡新産業都市の区域内にあり,繊維関係の工場などが国道327号線に沿って立地している。坪谷(つぼや)は若山牧水の生地で,生家の近くに牧水記念文学館がある。
執筆者:萩原 毅
日向市東部の旧市で,日向灘に面する。1951年市制。人口5万8666(2005)。西部は標高300m内外の山地,南部には尾鈴山地が広がり,海岸はリアス海岸をなす。市域中央を塩見川が東流し,河口部に牧島山,米ノ山からなる陸繫島をつくる。市街地は江戸時代に天領の手代所(陣屋)があった富高(とみたか)を中心に発展した。JR日豊本線が通り,国道10号線から国道327号線が分岐し,東九州自動車道のインターチェンジがある。江戸初期は延岡藩領,1692年(元禄5)南部の美々津(みみつ),幸脇(さいわき)を除く地域が天領になった。陸繫島上の細島は古くからの良港で,中世には中国貿易も行われ,日向第1の港として栄えた。また耳川河口の美々津は高鍋藩の要港で,木材,木炭の上方への積出港としてにぎわった。農耕地は全面積のわずか6%で,ハウス園芸が行われる。美々津では大規模ブロイラー飼育が行われている。1964年に日向・延岡新産業都市に指定され,繊維,化学,砂糖,医薬関連などの工場が誘致され,北部の細島工業港からは川崎,大阪,神戸へフェリーが就航する(2008年現在,フェリーは休止)。変化に富んだ海岸線は日豊海岸国定公園に含まれ,美々津海岸などでは美しい柱状節理が見られる。伊勢ヶ浜,小倉浜で採れたハマグリは良質の白碁石とされたが,近年は原料不足になった。
執筆者:下村 数馬
鎌倉時代の日蓮宗の僧。日蓮の直弟,身延山久遠(くおん)寺第2世。上総国藻原(もばら)(千葉県茂原市)小林氏の出身と伝える。佐渡阿闍梨(あじやり)と称した。1276年(建治2)日蓮の旧師,安房清澄寺道善房死去のおりには,日蓮の書いた《報恩抄》をその墓前で代読した。82年(弘安5)日蓮が本弟子として指定した6人(六老僧)のうちにも加えられている。日蓮没後,その廟所である甲斐身延に登り,日興(につこう)とともに廟所に給仕し,学頭として門下の教育に当たったが,日興が日蓮在世以来の信奉者波木井(はきい)氏の信仰のあり方を批判して88年(正応1)身延を離山した後,身延の経営に当たった。また身延とともに,上総藻原妙光寺(現,藻原(そうげん)寺)を兼帯した。著書に諸宗批判の大綱を記す《金綱(きんこう)集》がある。日向の系統を日向門流,身延門流,藻原門流と呼ぶ。
執筆者:高木 豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧。三位房(さんみぼう)、佐渡公(さどこう)とも称される。上総(かずさ)国藻原(もばら)(千葉県茂原(もばら)市)の出身と伝えられる。幼少のときから日蓮のもとに投じて、つねに師に従って修学し、困苦をともにしたという。とくに身延山(みのぶさん)に隠棲(いんせい)した日蓮と、地方に住む信者との間を、手紙などをもってつなぐ重要な役割を果たした。1282年(弘安5)の日蓮入滅(にゅうめつ)に際しては、本弟子6人のうちの一人に選ばれ、後世に六老僧の一人として敬われている。日向の本拠は藻原の妙光(みょうこう)寺(現在は藻原(そうげん)寺)であるが、1288年(正応1)に身延山久遠(くおん)寺(山梨県身延町)の住持に迎えられ、あとを日秀(1264―1334)に任せてここに移った。領主の波木井実長(はきいさねなが)(1222―1297)の助力を得て久遠寺の基礎を固め、藻原に隠棲して没した。
[中尾 尭 2017年9月19日]
(佐々木馨)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
「伊勢型戦艦」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…日蓮没(1282)後,その遺言により廟所が身延に置かれ,門弟の輪番による廟所への奉仕が制定された。しかし,やがて行われなくなり,日興(につこう)が主としてこれに当たり,日向(にこう)も身延に来て学頭を務めたが,身延の地を寄進した日蓮の檀越(だんおつ)波木井(はきい)実長と日興との間に不和が生じ,日興は88年(正応1)駿河に去ったので,日向が住持=貫首(かんず)となり,身延門流=日向門流の拠点とした。室町時代の貫首日朝は,堂宇を現在地に移し拡充したばかりでなく,その後嗣日意・日伝とともに,各地に身延門流の教線を伸ばし,それまでの波木井氏の氏寺的存在であった久遠寺を日蓮廟所を中心とする霊場寺院化していった。…
…また高く秀でた山,あるいは豊かな稲穂の山の意の普通名詞でもある。神話には〈日向(ひむか)の高千穂〉とあり,日向臼杵郡智保郷や日向と大隅にまたがる霧島山などが比定されてきた。しかし記紀の〈日向(ひむか)〉は日に向かった光明の地の意味でもある。…
…平定された葦原中国には,あらためて日神の孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降されることになる。皇孫はアマテラスの神言によって支配者的資格を授かったうえ,天忍日(あめのおしひ)命,天津久米(あまつくめ)命(大久米命)を先導とし,天児屋(あめのこやね)命,太玉(ふとたま)命,天鈿女(あめのうずめ)命,石凝姥(いしこりどめ)命,玉祖(たまのおや)命ら諸神を伴として日向(ひむか)の高千穂の〈くじふる嶽〉に天降る。そして日向の国に宮居を定めた。…
※「日向」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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