日向(読み)ひゅうが

精選版 日本国語大辞典 「日向」の意味・読み・例文・類語

ひゅうが ひうが【日向】

(「ひむか(日向)」の変化した語)
[1] 〘名〙 日に向かうこと。日に対すること。日を受けて草木が繁茂すること。
浄瑠璃・明石(1645)二「松を二本そだてしが、ひうかのたけまで、栄ゆるとみる」
[2]
[一] 西海道一一か国の一国。古くは襲国の一部で、九州南東部を広く占めた。和銅六年(七一三大隅国を設置して後一国となる。鎌倉時代の守護は島津氏。豊臣秀吉の九州平定後は五藩に分割、明治四年(一八七一)の廃藩置県で美々津・都城の二県が置かれ、同六年宮崎県となったが、同九年鹿児島県に合併され、同一六年再び宮崎県を設置。
[二] 宮崎県北部の地名。日向灘に面する。商・工業港の細島港をもち、新産業都市の指定後、各種工場が立地した。小倉ケ浜(おくらがはま)の蛤から作られた白碁石は名品。昭和二六年(一九五一)市制。

ひ‐むかい ‥むかひ【日向】

〘名〙 日のさす方に向かうこと。西の方とする説もあるが、太陽信仰に基づく思想で、「古事記‐雄略」にも若日下王が「日に背きていでますこと、いと恐し」とあって、日に向かう信仰のあったことがわかる。
※万葉(8C後)一三・三二四二「美濃の国の 高北の 八十一隣(くくり)の宮に 日向(ひむかひ)に 行き闕くる靡(な)く」

ひむか【日向】

古代、筑紫(九州)の東南部を指した呼称。はじめ襲国(そのくに)と呼ばれた地域の一部だったが律令制の成立にともない日向(ひゅうが)国が成立した。
※書紀(720)推古二〇年正月・歌謡「馬ならば 譬武伽(ヒムカ)の駒 太刀ならば 呉の真鋤(まさひ)

ひ‐な‐た【日向】

〘名〙 (「な」は「の」の意、「た」は「こなた」「そなた」などの「た」と同じく、方向の意を表わすものか。「日の方」の意から) 日の光の当たる方。また、その場所。比喩的に人の目につく所や順境にもいう。
※相模集(1061頃か)「さしてこしひなたの山を頼むには目も明かに見えざらめやは」

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デジタル大辞泉 「日向」の意味・読み・例文・類語

ひゅうが〔ひうが〕【日向】

旧国名の一。現在の宮崎県鹿児島県北東部にあたる。日州にっしゅう
宮崎県北部、日向灘に面する市。良港の細島ほそしま港があり、商業・工業・交通の要地。ハマグリの殻で作る白碁石を特産。平成18年(2006)2月、東郷町を編入。人口6.3万(2010)。

ひ‐な‐た【日向】

《「日のかた」の意から》日光の当たっている場所。⇔日陰
物事の表面。表側。「陰日向のない人」
[類語]日溜まり日当たり

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改訂新版 世界大百科事典 「日向」の意味・わかりやすい解説

日向[市] (ひゅうが)

宮崎県中部の市。2006年2月旧日向市が東郷(とうごう)町を編入して成立した。人口6万3223(2010)。

日向市中東部の旧町。旧東臼杵(ひがしうすき)郡所属。人口4889(2005)。江戸時代は一部天領を除き延岡藩領であった。周囲は山地で占められ,中心部を東流する耳川とその支流沿いに耕地が点在する。農林業が主産業で,畜産,養蚕をはじめ,シイタケ,米,ミカンなどの栽培が行われる。南東部の寺迫は古くから野菜の促成栽培の産地として知られる。日向延岡新産業都市の区域内にあり,繊維関係の工場などが国道327号線に沿って立地している。坪谷(つぼや)は若山牧水の生地で,生家の近くに牧水記念文学館がある。
執筆者:

日向市東部の旧市で,日向灘に面する。1951年市制。人口5万8666(2005)。西部は標高300m内外の山地,南部には尾鈴山地が広がり,海岸はリアス海岸をなす。市域中央を塩見川が東流し,河口部に牧島山,米ノ山からなる陸繫島をつくる。市街地は江戸時代に天領の手代所(陣屋)があった富高(とみたか)を中心に発展した。JR日豊本線が通り,国道10号線から国道327号線が分岐し,東九州自動車道のインターチェンジがある。江戸初期は延岡藩領,1692年(元禄5)南部の美々津(みみつ),幸脇(さいわき)を除く地域が天領になった。陸繫島上の細島は古くからの良港で,中世には中国貿易も行われ,日向第1の港として栄えた。また耳川河口の美々津は高鍋藩の要港で,木材,木炭の上方への積出港としてにぎわった。農耕地は全面積のわずか6%で,ハウス園芸が行われる。美々津では大規模ブロイラー飼育が行われている。1964年に日向・延岡新産業都市に指定され,繊維,化学,砂糖,医薬関連などの工場が誘致され,北部の細島工業港からは川崎,大阪,神戸へフェリーが就航する(2008年現在,フェリーは休止)。変化に富んだ海岸線は日豊海岸国定公園に含まれ,美々津海岸などでは美しい柱状節理が見られる。伊勢ヶ浜,小倉浜で採れたハマグリは良質の白碁石とされたが,近年は原料不足になった。
執筆者:

日向 (にこう)
生没年:1253-1314(建長5-正和3)

鎌倉時代の日蓮宗の僧。日蓮の直弟,身延山久遠(くおん)寺第2世。上総国藻原(もばら)(千葉県茂原市)小林氏の出身と伝える。佐渡阿闍梨(あじやり)と称した。1276年(建治2)日蓮の旧師,安房清澄寺道善房死去のおりには,日蓮の書いた《報恩抄》をその墓前で代読した。82年(弘安5)日蓮が本弟子として指定した6人(六老僧)のうちにも加えられている。日蓮没後,その廟所である甲斐身延に登り,日興(につこう)とともに廟所に給仕し,学頭として門下の教育に当たったが,日興が日蓮在世以来の信奉者波木井(はきい)氏の信仰のあり方を批判して88年(正応1)身延を離山した後,身延の経営に当たった。また身延とともに,上総藻原妙光寺(現,藻原(そうげん)寺)を兼帯した。著書に諸宗批判の大綱を記す《金綱(きんこう)集》がある。日向の系統を日向門流,身延門流,藻原門流と呼ぶ。
執筆者:

日向 (ひむか)

日本神話における地名。九州南東部の地名であるが,記紀の伝承では必ずしも実際の場所を指すものではない。伊弉諾(いざなき)尊が黄泉国(よみのくに)のけがれを祓うためにみそぎをし,瓊瓊杵(ににぎ)尊が降臨した所が〈筑紫(つくし)の日向〉とされている。そこは〈朝日の直刺(たださ)す国,夕日の日照る国〉であり,現実の出雲ではなく神話的空間としての〈出雲〉(出雲神話)や〈黄泉国〉といった日の没する闇の国と表裏一対をなす神話的世界でもあった。〈ヒムカ〉とは,そうした地を〈日に向かえるよき所〉としてたたえた名称である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日向」の意味・わかりやすい解説

日向
にこう
(1253―1314)

鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧。三位房(さんみぼう)、佐渡公(さどこう)とも称される。上総(かずさ)国藻原(もばら)(千葉県茂原(もばら)市)の出身と伝えられる。幼少のときから日蓮のもとに投じて、つねに師に従って修学し、困苦をともにしたという。とくに身延山(みのぶさん)に隠棲(いんせい)した日蓮と、地方に住む信者との間を、手紙などをもってつなぐ重要な役割を果たした。1282年(弘安5)の日蓮入滅(にゅうめつ)に際しては、本弟子6人のうちの一人に選ばれ、後世に六老僧の一人として敬われている。日向の本拠は藻原の妙光(みょうこう)寺(現在は藻原(そうげん)寺)であるが、1288年(正応1)に身延山久遠(くおん)寺(山梨県身延町)の住持に迎えられ、あとを日秀(1264―1334)に任せてここに移った。領主の波木井実長(はきいさねなが)(1222―1297)の助力を得て久遠寺の基礎を固め、藻原に隠棲して没した。

[中尾 尭 2017年9月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「日向」の解説

日向

没年:正和3.9.3(1314.10.12)
生年:建長5(1253)
鎌倉時代の日蓮宗の僧。日蓮の六老僧(6人の高弟)のひとり。佐渡房,民部阿闍梨(高僧の称)とも呼ばれた。上総国(千葉県)藻原郷の武士の子として出生。幼少にして比叡山に学び帰郷,13歳のとき日蓮に師事した。常侍して師の佐渡配流にも従い,赦免後,斎藤兼綱の外護を得て上総藻原の妙光寺を開創,そこを拠点に布教。師の没後,身延に登り,学頭として門弟の教化に当たり,日興と共に身延の経営に専心した。しかし,やがて檀那波木井実長の信仰をめぐり日興と対立,日興の身延下山以後,波木井の外護のもと,身延久遠寺の基礎を築き,身延第2世の別当となった。晩年には,身延を日進に譲って藻原妙光寺に隠棲。その門流を日向門流あるいは身延門流という。著書に『金綱集』がある。同書は,日蓮から聴聞したことや自ら集めた経論類の要文から成り,当時の日蓮宗による他宗批判の大綱が知れる。<参考文献>身延山久遠寺編『身延山史』

(佐々木馨)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日向」の解説

日向 にこう

1253-1314 鎌倉時代の僧。
建長5年2月16日生まれ。日蓮門下六老僧のひとり。日向門流(身延門流)の祖。はやくから日蓮に随従し,師の死後,上総(かずさ)(千葉県)に妙光寺をひらく。正応(しょうおう)元年身延山久遠寺2世となり,波木井実長(はきい-さねなが)の助けをえて同寺の発展につとめた。正和(しょうわ)3年9月3日死去。62歳。上総出身。俗名は小林藤三郎実信。通称は佐渡阿闍梨(あじゃり),民部阿闍梨。著作に「金綱集」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日向」の意味・わかりやすい解説

日向
にこう

[生]建長5(1253).上総
[没]正和3(1314)
鎌倉時代の日蓮宗の僧。六老僧の一人。佐渡阿闍梨とも呼ばれる。比叡山で勉学したが,13歳で日蓮の門に入り,日蓮の佐渡配流にも従った。正応1 (1288) 年身延山を継ぎ,26年間在職。主著『金綱集』 (14巻) ,『高祖一期行状日記』『天目日向問答記』。

日向
ひゅうが

伊勢型戦艦」のページをご覧ください。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日向」の解説

日向
ひゅうが

宮崎県の旧国名
記紀の伝承によれば皇室の発祥地で,瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) がこの地の高千穂峰に降臨。神武天皇がこの地から東征し,大和地方を平定したという。西都原などの古墳群が存在し古くからの文化の発達がうかがわれる。

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デジタル大辞泉プラス 「日向」の解説

日向〔戦艦〕

日本海軍の戦艦。伊勢型戦艦の2番艦。1917年進水、1918年就役の超弩級戦艦。のちに航空戦艦に改装される。フィリピン沖海戦などに参加。第二次世界大戦末期の呉軍港空襲により被弾して大破。戦後浮揚され、解体された。

日向〔道の駅〕

宮崎県日向市にある道の駅。国道10号に沿う。

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百科事典マイペディア 「日向」の意味・わかりやすい解説

日向【ひうが】

日向(ひゅうがの)国

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367日誕生日大事典 「日向」の解説

日向 (にこう)

生年月日:1253年2月16日
鎌倉時代後期の僧
1314年没

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世界大百科事典(旧版)内の日向の言及

【御講聞書】より

…《日向記》とも称す。1278年(弘安1)から80年にかけて,日蓮の弟子日向(にこう)が日蓮の法華経の講義を筆録したものと伝えられるが,書誌学的・教学的面から後世の偽撰とされる。…

【久遠寺】より

…日蓮没(1282)後,その遺言により廟所が身延に置かれ,門弟の輪番による廟所への奉仕が制定された。しかし,やがて行われなくなり,日興(につこう)が主としてこれに当たり,日向(にこう)も身延に来て学頭を務めたが,身延の地を寄進した日蓮の檀越(だんおつ)波木井(はきい)実長と日興との間に不和が生じ,日興は88年(正応1)駿河に去ったので,日向が住持=貫首(かんず)となり,身延門流=日向門流の拠点とした。室町時代の貫首日朝は,堂宇を現在地に移し拡充したばかりでなく,その後嗣日意・日伝とともに,各地に身延門流の教線を伸ばし,それまでの波木井氏の氏寺的存在であった久遠寺を日蓮廟所を中心とする霊場寺院化していった。…

【高千穂】より

…また高く秀でた山,あるいは豊かな稲穂の山の意の普通名詞でもある。神話には〈日向(ひむか)の高千穂〉とあり,日向臼杵郡智保郷や日向と大隅にまたがる霧島山などが比定されてきた。しかし記紀の〈日向(ひむか)〉は日に向かった光明の地の意味でもある。…

【天孫降臨神話】より

…平定された葦原中国には,あらためて日神の孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降されることになる。皇孫はアマテラスの神言によって支配者的資格を授かったうえ,天忍日(あめのおしひ)命,天津久米(あまつくめ)命(大久米命)を先導とし,天児屋(あめのこやね)命太玉(ふとたま)命天鈿女(あめのうずめ)命石凝姥(いしこりどめ)命玉祖(たまのおや)命ら諸神を伴として日向(ひむか)の高千穂の〈くじふる嶽〉に天降る。そして日向の国に宮居を定めた。…

※「日向」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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