日本歴史地名大系 「益田郡」の解説 益田郡ましたぐん 面積:八四七・五六平方キロ金山(かなやま)町・下呂(げろ)町・馬瀬(まぜ)村・萩原(はぎわら)町・小坂(おさか)町県の東部中央に位置し、北は大野郡朝日(あさひ)村・久々野(くぐの)町・宮(みや)村・清見(きよみ)村、西は郡上(ぐじよう)郡明方(みようがた)村・和良(わら)村、南は武儀(むぎ)郡上之保(かみのほ)村、加茂郡七宗(ひちそう)町・白川(しらかわ)町、恵那郡加子母(かしも)村、東は長野県木曾郡王滝(おうたき)村・三岳(みたけ)村などに接する。北端の位(くらい)山(一五二九・二メートル)や東端の御嶽(おんたけ)(三〇六三・四メートル)をはじめとする飛騨山脈の山々が連なる山岳地帯で、郡域の大半を山林が占める。その間を乗鞍(のりくら)岳に源を発した飛騨川(小坂町から金山町までが益田川)が小坂川・山之口(やまのくち)川・馬瀬川など大小多数の支流を合せながら南流する。この益田川水系に四町一村がある。国道四一号とJR高山本線が飛騨川と並行して走り、トンネルが多い。郡域の気候は冬季は冷えこむが飛騨の他地域とは異なり降雪はあまりない。また北西の季節風が分水嶺の位山鞍部を越えて川沿いに強く吹抜ける。とくに萩原町から下呂町にかけて顕著で、俗に益田風とよばれる。郡の成立は貞観一二年(八七〇)で、一二月八日の勅によって大野郡の南部が分割され当郡がつくられた(三代実録)。かつての郡域は現大野郡高根(たかね)村・朝日村および久々野町の一部を含み、萩原町山之口は大野郡、金山町の飛騨川西岸地区と田島(たじま)地区は美濃国に属していた。〔原始・古代〕下呂町竹原(たけはら)地区の乗政(のりまさ)・野尻(のじり)などには尖頭器や剥片石器など先土器時代とみられる遺物散布地がある。また同町湯(ゆ)ヶ峰の山頂付近に産する下呂石(ガラス質黒雲母石英安山岩)は、先土器時代から弥生時代にかけての長期間石器の材料として用いられ、その分布は岐阜県一円から愛知県・新潟県などにまで及ぶ。縄文時代早期の遺跡には小坂町の橋場(はしば)遺跡・福応寺(ふくおうじ)遺跡などがあり、飛騨川の河岸段丘面に位置する押型文土器遺跡である。前期のものとしては、小坂町小坂川段丘上の味屋(あじや)遺跡・岩井田(いわいだ)遺跡、下呂町峰一合(みねいちご)遺跡などがある。中期から後期にかけての遺跡は、小坂町内の小坂川段丘上の水口(みなくち)遺跡、小坂川支流大洞(おおぼら)川段丘上の湯屋(ゆや)遺跡、小坂川上流、小黒(おぐろ)川と濁河(にごりご)川の合流点近くにある南垣内(みなみがいと)遺跡、萩原町の上畑(うわばた)遺跡、下呂町の少(しよう)ヶ野(の)遺跡、金山町馬瀬川段丘上の祖師野(そしの)遺跡などがある。小坂町の阿弥陀堂(あみだどう)遺跡は縄文晩期の遺跡。弥生時代の遺跡は少なく、飛騨川流域に阿弥陀堂遺跡・長瀬上野(ながせうえの)遺跡・無数原(むすばら)遺跡などがある。萩原町上呂(じようろ)の飛騨川東岸からは二口の袈裟襷文銅鐸が出土している。古墳は顕著なものはない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by