日本歴史地名大系 「益頭郡・益津郡」の解説
益頭郡・益津郡
ましずぐん・ましづぐん
- 静岡県:駿河国
- 益頭郡・益津郡
〔古代〕
「和名抄」東急本国郡部に「末志豆」の訓がある。古代には現焼津市および藤枝市と目里堅魚」とみえ、郡名の初見とされる。天平七年(七三五)一〇月の平城京跡出土木簡(同書三一―二五頁)にも「益頭郡」とみえる。同一〇年度の駿河国正税帳(正倉院文書)には「益頭郡、天平九年定穀肆万肆阡伍伯壱拾参斛陸斗、振入四千
六斛六斗九升、斛別入一斗、定肆万肆伯陸拾陸斛玖斗壱升」という記載がある。同一九年九月二六日の勅旨(東大寺要録)によれば、
下帝釈
、標
知天皇命百年息
」とあり、この瑞により天平勝宝九歳(七五七)を天平宝字元年に改元する。そして金刺舎人麻自を従六位上に叙して
二〇疋などを与え、瑞をもって上京した駅使中衛舎人少初位上賀茂君継手を従八位下に叙し、
一〇疋を与えている。ここで注意されるのは同書天平宝字元年八月一八日条に「其不
奏上
国郡司等不
在
恩限
」とあり、祥瑞献上に駿河国司や益頭郡司がまったく関与していないことである。そのかわり藤原仲麻呂政権と直接的な結びつきのある中衛舎人が瑞を持ってきた点は、この時の祥瑞献上が仲麻呂政権の政治的意図とかかわるとみてよい。なお当郡と地理的・歴史的に密接な関係にあった
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報