県東部、すなわちおおむね大井川以東で、伊豆半島を除く地域に所在した国。西は遠江国・信濃国、北は甲斐国、東は伊豆国・相模国に接し、南は駿河湾に面する。「和名抄」「延喜式」が記す古代の管郡は、西から
「古事記」「日本書紀」は、景行天皇の時のこととしてヤマトタケルノミコト(記は「倭建命」、紀は「日本武尊」と表記)の東征伝承を載せている。そのなかの「日本書紀」景行四〇年是歳条に、日本武尊が駿河に至った時、その地の賊が彼を欺いて野原で焼討ちにするが、武尊は向火をつけ、また「草薙剣」で周りの草を切払って難を逃れ賊を打殺したので、その場所を「焼津」と名づけたという有名な地名起源説話がある。「日本書紀」崇神一〇年九月九日条によれば、天皇が派遣したとされる「四道将軍」のなかに「東海」(「古事記」では「東方十二道」)に遣わされた武淳川別(同書では大毘古の子の建沼河別)がいるが、建沼河別は「古事記」では阿倍臣の祖とされており、当国安倍郡は同氏に縁の深い地域と考えられている。また「新撰姓氏録」右京皇別下の廬原公の条によれば、その祖は日本武尊の東征に従ったとされる吉備建彦命で、彼は東征の後に「阿倍廬原国」に至り、復命の際に「廬原国」を与えられたとある。これらの伝承を歴史的事実とすることはできないが、阿倍氏をはじめとして、倭王権の東国進出に大きな役割を果したとされる諸氏族が、当国に勢力を扶植していったことは、ある程度認められよう。
「国造本紀」によれば、後世の駿河国にあたる地域に存在した国造として、珠流河国造・廬原国造の二つが挙げられている。のちの廬原郡を中心として駿河西部を支配領域としたと考えられる廬原国造について、同書は「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。駿州。現在の静岡県の中東部,大井川以東,伊豆半島を除く地域に位置する。
東海道に属する上国(《延喜式》)。国名スルガは,富士川以東の地域にあった〈珠流河国〉の名を継承したものと思われる。珠流河国造と廬原(いおはら)国造の支配領域をあわせて駿河国が形成されるのは7世紀中葉と思われ,680年(天武9)には2郡を割いて伊豆国を分置した。志太(しだ),益頭(津)(ましつ),有度(うと),安倍,廬原,富士,駿河の7郡を有し,当初は中国であったが,奈良時代末の768年(神護景雲2)ころまでには上国に転じた。国府は静岡市葵区長谷町付近とされてきたが,国分寺の所在との関連で疑問もあり,静岡市葵区城内地区を含めて再考の要がある。正倉院文書中に,737年(天平9),翌738年度の正税帳断簡があり,当時の国勢や政治・経済の一端を知ることができる。それによれば,当時の人口はおよそ7万人と推定され,また中央政府への売上品として,御履皮,綾羅などのほか,年料器杖として挂甲,大刀,弓,箭,鞆(とも)などが見え,《延喜式》兵部省の器杖の規定と大筋で変わらない。平城宮木簡によると,有度郡嘗見郷,駿河郡古家郷からは調の竪魚,安倍郡からは甘子(柑子。蜜柑の古名)が貢上されていた。天平10年度の正税帳に〈当年租穀一万一百六十斛三斗〉とあり,段別1束5把の田租で計算すると,6773町余の田があったことになる。他方《和名抄》には〈田九千六十三町二段六十五歩〉と見え,免税地を考慮すれば,天平時代に7000~8000町歩の水田が存在したことになる。
10世紀の中葉,東国に起こった平将門の乱は当国にも波及し,940年(天慶3)正月,将門軍は岫崎関(清見関)を破って国分寺を囲み,雑物を奪い人民を射殺した。また954年(天暦8)には益津郡で郡司伴成正と国司判官代永原忠藤らが,翌年には国司介橘忠幹が殺害される事件が起こった。こうした治安の乱れを重視した国司は,国郡司の帯剣武装の許可を申請し,956年許可された(《朝野群載》)。以後,駿河武士団の形成は急速に進行した。
執筆者:原 秀三郎
源頼朝は1180年(治承4)8月に伊豆で挙兵,10月には富士川の戦で平氏軍を破り,駿河守護に武田信義を補任して,みずからは鎌倉に入った。その4年後に信義の子一条忠頼が謀反の嫌疑で殺害された際,信義は守護を解任されたと考えられる。その後の駿河国守護職は,伊豆国と合わせて北条時政・義時・泰時と北条氏の家督(得宗)に相伝され,鎌倉末に至った。鎌倉期駿河の在地領主(武士)としては,入江,興津,岡部,吉香(きつか),矢部,渋川,庵原氏らがおり,1200年(正治2)に梶原景時が幕府に背き上洛の途中,狐ヶ崎で合戦となり,これら駿河武士の活躍で梶原一族は討たれた。また承久の乱でも吉香氏をはじめとして,駿河武士の活躍はめざましかった。中世はいわゆる荘園公領制に基礎をおく社会としてとらえられており,駿河にも葉梨荘,北安東荘,大津御厨など相当数の荘園,御厨の存在を知ることはできるが,いずれも史料に乏しく,具体的な支配状況は明らかになってはいない。
南北朝の内乱初期には中先代の乱,足利・新田両氏の合戦,尊氏・直義兄弟の合戦など,いずれも手越河原,府中,由比,薩埵(さつた)山など,駿河国内で激戦が展開された。また安倍城には興良(おきよし)親王を擁した狩野貞長がおり,宗良(むねよし)親王も一時立ち寄るなど,遠江につぐ東海地方における南朝方の拠点であった。南北朝期の駿河国守護職は,石塔義房が初代であるが,1338年(延元3・暦応1)今川範国が補任されて以降は,戦国期の氏真に至るまで代々今川氏に相伝された。駿河守護今川氏は室町幕府将軍家と密接な関係にあり,明徳の乱や応永の乱で泰範は駿遠両国の兵を率いて将軍義満のもとに馳せ参じた。またとくに関八州に伊豆,甲斐の10ヵ国を統轄していた鎌倉公方の監視という任務も負っており,上杉禅秀の乱の鎮圧に範政が活躍するなどで,幕府の信頼はあつかった。将軍義満や義教は富士遊覧の名目で鎌倉公方への威圧を目的に,駿河へ下ったこともある。応仁・文明の乱では守護義忠が東軍に投じ,領国内の国人領主を率いて上洛している。
義忠は1476年(文明8)に不慮の死をとげ,今川家に内訌が起こったが,幼少の嫡男氏親は伯父伊勢新九郎(北条早雲)の働きにより家督を継いだ。1508年(永正5)には遠江の守護ともなり,領国内に検地を行い,寄親寄子制で家臣団を編成し,さらに《今川仮名目録》を制定するなど,領国支配体制の強化をはかった。こうして氏親以降氏真に至る今川氏4代は戦国大名とよばれ,三河一国をも支配下に収めた義元段階に,その領国支配は頂点に達した。しかし義元は桶狭間の戦で織田信長に討たれ,68年(永禄11)には武田信玄が駿河へ侵攻し,氏真は掛川城へ逃れた。翌年掛川城は徳川家康の攻撃により開城させられ,今川氏は事実上滅亡した。75年(天正3)には穴山信君(梅雪)が江尻城主となり,駿河は武田氏の支配下に入った。徳川・武田両氏の抗争は遠江を中心に展開するが,82年に武田氏が滅亡し,ついで信長が本能寺で討たれた後,家康は三河,遠江,駿河,甲斐,南信濃の5ヵ国を領有した。86年には居城を浜松から駿府に移し,89年から翌年にかけて五ヵ国総検地と七ヵ条定書の交付を行い,領国内の農民支配体制,軍事体制の強化・整備をはかった。しかし90年に後北条氏が滅亡し,家康は豊臣秀吉の命で関東へ転封した。
すでに平安末には島田,岡部,手越,府中,興津,蒲原,車返,黄瀬川などには宿が設けられていたが,鎌倉幕府の成立により京と鎌倉を結ぶ東海道の果たす役割は飛躍的に増大した。室町期からとくに戦国期には,流通経済や交易のみならず,軍事行動のためにも領国内の交通路の整備がはかられた。その一端は今川氏や武田氏,とくに徳川氏の天正年間の蒲原や根原の伝馬人等にあてた諸役免許状,駿府~岡崎間の宿中に下した伝馬朱印状などに明らかである。
宗教的には,駿河では久能寺や智満寺など,元来は天台宗の影響が強かった。ところが鎌倉期に日蓮が法華信仰を布教することにより,富士川筋を中心に日蓮宗も発展した。《立正安国論》は岩本の実相寺にこもってまとめられたといわれており,またその弟子日興はとくに駿河と関係が深く,北山の本門寺をはじめとする富士五山などがその教義をうけた。禅宗では臨済宗の影響が大きく,栄西の高弟聖一国師(弁円),大応国師(南浦紹明)はいずれも駿河の出身である。その後戦国期には,臨済宗妙心寺派が今川氏の保護をうけて発展した。また戦国期には戦乱を避けて多数の公卿が今川氏を頼って駿河へ下向しており,当時の駿府は戦国期を代表する文化都市の一つでもあった。なお富士信仰とのかかわりで,駿河国一宮富士山本宮浅間(せんげん)神社など,浅間信仰も注目される。
執筆者:本多 隆成
徳川家康の関東移封によって駿河国は豊臣秀吉麾下の中村一氏に与えられ,一氏は駿府に入り14万5000石を領した。一氏の領国経営には富士川渡舟,新宿の取りたてなどの交通の整備があった。家老横田村詮が1599年(慶長4)領内に発布した法度は年貢,夫役,村切りなどについて詳細に規定し,地頭・給人の私的な百姓支配を禁じ,百姓保護,兵農分離を進めるものであった。またこの法度には,領国を駿府と沼津を中心とする市場圏によって掌握する意図がもりこまれており,当時駿河国の経済圏が富士川を境に東西に分かれていたことが知られる。関ヶ原の戦で家康の覇権が成立すると秀吉支配下の一氏は移封され,家康譜代の内藤信成が駿府,大久保忠佐が沼津,天野康景が興国寺(駿東郡),酒井忠利が田中(藤枝)に配され,小藩分立となった。
1605年家康は将軍職を秀忠に譲り,駿府を退隠の地と定め,翌年には駿府城主内藤信成を近江長浜に移した。そして07年大名助役で拡張工事中の駿府城に入った。以後16年(元和2)までの10年間を大御所として江戸の将軍秀忠を指導する一方,駿府にあって対大坂政策,全国支配のための諸政策を推進した。家康側近に本多正純,成瀬正成らが仕えて政務全般にあたり,勘定頭松平正綱は財政を担当し,代官頭伊奈忠次,彦坂元正,大久保長安らは農村行政はじめ安倍金山,伊豆金銀山の開発にあたった。以心崇伝(いしんすうでん),南光坊天海,林羅山らは寺社の取締り,文化・外交に手腕を発揮し,後藤庄三郎光次,角倉了以,ウィリアム・アダムズ(三浦按針)らは貨幣鋳造,貿易,河川開発にあたった。多彩な人材が家康の全国支配を補佐した。この時期,家康は諸書を収集し《大蔵一覧》《群書治要》など(駿河版)を刊行している。
関ヶ原の戦後,駿河国はしばらく小藩が分立したが,1609年家康の保護下に徳川頼宣の領国となり,19年頼宣は紀州和歌山へ転封,24年(寛永1)から32年まで徳川忠長が支配した。駿河国の大藩支配は頼宣および忠長の20年間余続いた。忠長改易後,再び沼津,田中,小島藩による小藩支配が展開した。沼津藩は1601年大久保忠佐が2万石で入封,13年無嗣除封・廃藩ののち,1777年(安永6)水野忠友が再興した。田中藩は1601年酒井忠利が1万石で入封,以来諸家12代が交替,1730年(享保15)本多正矩が4万石で入封して定着をみた。小島藩は1689年(元禄2)松平信孝が1万石を与えられて成立し,1704年(宝永1)陣屋を庵原(いはら)郡小島(現,静岡市清水区)に構え,幕末まで存続した。駿河国の天領支配は,初期には代官頭の下に駿府代官,島田代官,沼津代官,蒲原代官など複数の代官によって行われた。のち代官は整理統合され,中期には駿府代官が支配し,駿河国の一部を韮山(にらやま)代官が支配した。駿河国内には旗本知行地も多い。忠長改易後,駿府の番城化にともない城代や定番として赴任する旗本の知行地が駿府周辺に創出され,元禄地方直し後はさらに増え,以後定着した。近世中期の支配別石高は天領8万石,大名領(諸藩飛地を含む)6万4000石,旗本知行地8万8000石,寺社領1万3000石,合計24万5000石であった。
1601年東海道の宿駅として沼津,原,吉原,蒲原,由比,興津,江尻,府中,丸子,藤枝,島田,金谷が置かれ,翌年岡部宿が加えられた。駿河国には12宿が設置され,東西交通の枢要な地位を占めた。東海道を分断する形で流れる富士川は渡舟制度が整備され,興津川,安倍川,瀬戸川,大井川などは徒歩による渡渉が定められた。大井川は〈箱根八里は馬でも越すが,越すに越されぬ大井川〉といわれる難所で,川越人足の手助けが必要であった。96年には両岸の島田,金谷両宿に川庄屋が任命されて,川越人足と賃銭の取締りにあたった。水深を基準とする賃銭が整うのは,享保年間(1716-36)である。大雨が降ると渡河できず,川留が1ヵ月に及ぶ場合もあり,厳しい取締りをのがれて廻り越しを斡旋する者,公然と橋をかけ,賃銭を取る者も近世後期には現れるようになった。東海道から各地へ脇往還が分岐したが,甲州身延道,相良街道もそれである。海上交通では駿府の外港清水湊が甲信州と駿府,さらには江戸・大坂・名古屋方面と駿府を結ぶ重要港であった。
初期の新田開発は活発であった。富士川下流の開発は代官古郡(ふるごおり)重政・重年2代によって雁音(かりがね)堤が築かれ,〈加島五千石〉の美田が広がった。大井川下流は屋敷地を石垣や立木で洪水の難をのがれる舟型屋敷,村を囲む輪中集落が発達する一方,江戸や駿府の商人請負新田が見られる。享保年間には勘定吟味役萩原源左衛門美雅の命による治水工事,新田開発がなされた。1666年(寛文6)江戸浅草の豪商友野与右衛門と駿東郡深良村名主大庭源之丞によって箱根用水工事が始められた。箱根外輪山の山腹にトンネルを掘り,芦ノ湖の水を干ばつの地富士裾野に引く工事で,人夫延33万余,費用7335両,4年半の歳月をかけた難工事であったが,駿東郡29ヵ村が干ばつから免れることになった。寛永年間19万石余であった駿河国石高は元禄年間には4万7000石増え,23万8000石余となった。切添新田などの小規模開発の成果が当然ふくまれている。
安倍山中の足久保茶は御用茶として茶壺に詰められ,将軍に献上された。山間部村々の茶は年貢として納められたが,しだいに生産が増え,茶商人も生まれた。元文年間(1736-41)清水港から移出された茶は2万4000本にのぼる年もあった。この時期,薪34万把,炭18万俵,大小竹9万束のほか材木,榑木(くれき)などが清水港から移出された。茶,薪炭,竹,材木などが当時の駿河国の主要産物であった。1824年(文政7)には安倍,志太両郡と遠江国113ヵ村3692戸の茶生産者が駿府組,森町組,川根組の茶商人の不正・横暴を勘定奉行所へ訴え,51年(嘉永4)には安倍郡下63ヵ村が駿府の茶商,清水港の荷積問屋の横暴を訴え,駿河国6郡130ヵ村の茶生産者の支持をうけた。茶は駿河国の代表的な産物であった。駿河半紙の生産も中期以後富士,庵原,有渡,安倍,志太郡の山間の村々で盛んになった。山腹の採草地にミツマタ,コウゾを植えるため山論が頻発,駿府,大宮はじめ各地に仲買・問屋が生まれ,原料・資金を前貸しして製品を集荷し,江戸・大坂へ積み出した。天明の飢饉以後,幕府の奨励で駿河湾沿岸の村々では砂地を利用した甘蔗栽培が活発となり,しだいに各地に広がり畑地でも栽培するようになり,白下砂糖も製造された。
江戸・上方を往来する文人は駿河国の各地に文化の種をまき,産業の発展は文化受容の基盤を形成した。1803年(享和3)大須賀鬼卵が編した《東海道人物志》によれば,駿河国内に多彩な人材が輩出したことが知られる。俳諧には嵐雪5世六花庵虚屋(沼津),時雨窓桃壺(駿府),塚本如舟(島田),国学に服部菅雄(島田),音韻学・漢詩に山梨稲川(江尻)のほか儒学,暦学,本草学,狂歌,生花,碁,将棋,音曲に堪能な人物がおり,文化的活動の多彩さが知られる。このころ戯作の第一人者と称された恋川春町は小島藩藩士,十返舎一九は駿府町奉行与力の次男で駿河国と深いかかわりをもつ人物であった。各地に寺子屋が営まれ,駿東郡下には筆子塚が多数建てられ,富士川,大井川流域では和算が盛んであった。原宿松陰寺の白隠は庶民教化に活躍し,興津清見寺の五百羅漢は志向の勧進によって建てられた。庶民の信仰に支えられた順礼供養塔は各地に見られ,駿河国三十三番札所,駿豆両国札所が設けられた。また《駿河記》《駿河志料》《駿国雑誌》など地誌類にすぐれたものが生み出された。
1764年(明和1)小島藩の藩政改革による過酷な年貢増徴に対し,改革派役人の追放と年貢軽減を要求して百姓一揆がおこった。以後,駿河各地に百姓一揆,打毀(うちこわし)が頻発していった。83年(天明3)駿東郡28ヵ村が小田原藩に年貢減免を要求し,87年には駿府,清水で打毀が発生,興津宿では伝馬人足が米価高騰と宿役人の横暴を糾弾して騒動がおこった。1816年(文化13)には田中藩領80余ヵ村の農民が城下を埋めつくし,年貢軽減を勝ちとり,掛川藩,横須賀藩にも波及した。36年(天保7)には志太,益津郡で豪商を襲う打毀が発生。百姓一揆,打毀は田中藩一揆の増田五郎右衛門が首を斬られ義民としてまつられたように,各地に義民伝承を残し,幕藩制支配を崩壊に導いていった。天保改革に際し,幕府は駿河に国産会所を設け,駿河国産の茶,半紙,漆器などの専売を企て,あわせて天領,大名領,旗本知行地の入組み支配の枠をこえた支配を構想したが成功せず,1868年(明治1)5月徳川宗家が駿府に移封されて成立した駿府藩(ついで静岡藩と改称)の政策にひきつがれ,近代が幕をあけることになった。
執筆者:川崎 文昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
現在の静岡県東部および中部に位置した旧国名。駿州(すんしゅう)。大井川より東の部分で伊豆国を除いた地域である。大化改新前にあった珠流河(するが)国(富士川以東)と廬原(いほはら)国(富士川以西)、それに伊豆国の3国が大化改新による国郡制の施行によって統合されて駿河国になり、さらに680年(天武天皇9)伊豆国が分かれて、後の駿河国の範囲となった。「スルガ」の語源については、富士山・愛鷹(あしたか)山麓(さんろく)に自生するヤマトリカブトのアイヌ語「スルグラ」に由来するという説もあるが、流れが速く鋭い富士川にちなんだものともいう。737、738年(天平9、10)の「駿河国正税帳(しょうぜいちょう)」によると、当時の耕地面積は9676町余、田租(でんそ)は1万4514石余で、人口は6万7500人と推定されている。郡は東から駿河(のち駿東(すんとう))、富士、盧原(庵原(いはら))、安倍(あべ)、有度(有渡)(うど)、益頭(ましず)、志太(しだ)の7郡があり、『和名抄(わみょうしょう)』には59郷が記されている。国府は初め旧珠流河のあった駿河郡駿河郷に置かれたと推定されるが、のち安倍郡に移された。現在の静岡市葵(あおい)区長谷(はせ)町付近と考えられている。伊豆国が独立するまでの間は上国(じょうこく)であったが、田方(たがた)・賀茂(かも)の2郡が分置して中国(ちゅうこく)となり、のちふたたび上国に復した。平安後期から鎌倉期にかけて、大沼鮎沢御厨(おおぬまあいざわのみくりや)、大津御厨など広大な伊勢(いせ)神宮領の御厨が生まれた。また、八条院領服織荘(はとりしょう)、円勝寺領益頭荘、熊野那智山(なちさん)領北安東(きたあんどう)荘などの荘園ができ、それら荘園の荘官および京都から下向した在庁官人などが土着し、有力な在地勢力ができた。鎌倉期の守護は、甲斐(かい)の武田信義(のぶよし)が1180年(治承4)富士川合戦の直前に駿河国守護に任じられたが、1184年(元暦1)以降は鎌倉期を通して北条得宗(とくそう)家が世襲していった。ついで南北朝期、今川範国(のりくに)が1338年(延元3・暦応1)、元弘(げんこう)・建武(けんむ)の争乱の軍功の賞として守護となり、今川氏が戦国期まで世襲した。室町期、駿河国は鎌倉府管轄の甲斐、伊豆両国に接する幕府の最前衛の国であったため、幕府と鎌倉府の対立が激しくなるにつれ、守護今川氏は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(1416)、永享(えいきょう)の乱(1439)などの反乱を鎮定する重要な役割を果たした。今川氏が1560年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に敗れ滅亡したのちは、一時期武田氏が領したが、1582年(天正10)には徳川家康が支配することになった。家康の関東転封後は駿府(すんぷ)城の中村一氏(かずうじ)ら小大名の分割領有となった。1607年(慶長12)大御所(おおごしょ)としてふたたび家康が入り、さらに徳川頼宣(よりのぶ)領、徳川忠長(ただなが)領となったが、忠長除封後は駿府城には城代(じょうだい)が置かれ、天領が広範に分布していた。江戸時代の石高(こくだか)はおおよそ25万石で、860か村を数える。特産は茶で、また東海道の宿場が12か所もあり、交通上の要衝であった。1868年(明治1)徳川家達(いえさと)が駿河のほか遠江(とおとうみ)、三河の70万石で入り駿河藩領となり、廃藩置県によって71年静岡県となった。
[小和田哲男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
東海道の国。現在の静岡県東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では志太(しだ)・益頭(ましず)・有度(うど)・安倍・廬原(いおはら)・富士・駿河の7郡からなる。国府は安倍郡(現,静岡市)におかれた。国分寺の所在地には片山廃寺など諸説ある。一宮は浅間(せんげん)神社(現,富士宮市)。「和名抄」所載田数は9063町余。「延喜式」では調として綾・絁(あしぎぬ)や堅魚(かつお)など,庸として布・白木韓櫃(しらきのからびつ)。平安時代には,東国との往来に東海道が盛んに利用されて負担をしいた。鎌倉時代には北条得宗家が守護をつとめ,幕府の重要な基盤となる。南北朝期以降,今川氏が守護となり,領国支配を固める。1560年(永禄3)今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦で織田信長に敗れると,甲斐国の武田信玄と三河国の徳川家康が進出をはかり,武田氏滅亡後家康の支配権が確立した。家康の関東移封後,中村一氏(かずうじ)が封じられたが,関ケ原の戦後,再び徳川氏の支配に帰した。江戸時代は駿府城代がおかれ,小藩と幕領・旗本領がほとんどであった。1871年(明治4)廃藩置県により静岡県が成立。その後浜松県および足柄県の一部を合併。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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