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駿河国 するがのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

駿河国
するがのくに

現在の静岡県中部。東海道の一国。上国。もと珠流河国造(するがのくにのみやつこ),廬国造(いほはらのくにのみやつこ)の二つの国造があった。珠流河国造は『旧事本紀』にみえ,のちの駿河郡を中心にした地方であったと思われる。廬原国造も『旧事本紀』にみえ,『新撰姓氏録』には廬原国があり,のちの廬原郡を中心とした地方であった。古代この地における豪族廬原君(公)について天平9(737)年の『駿河国正税帳』『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』が記している。大化改新以降に成立した駿河国にはのちの伊豆国も含まれていたとみられ,その分離は『扶桑略記』に天武9(680)年とある。国府国分寺は現在の静岡市に置かれた。『延喜式』には志太郡,益頭郡(ましつぐん),有度郡(うどぐん),安倍郡,廬原郡,富士郡,駿河郡の 7郡を載せている。『和名抄』には郷 58,田 9063町と記している。鎌倉時代には守護として初め武田信義が補せられたが,その後は北条氏家督として得宗家が世襲し,室町時代には今川氏が代々支配した。戦国時代にいたり今川義元が駿河国のほかに遠江国,三河国をも治め,義元が桶狭間の戦い織田信長に敗死すると,一時甲斐国の武田氏の支配となったが,天正10(1582)年に武田勝頼が織田信長,徳川家康の連合軍に敗れたのちは徳川家康の領有するところとなり,江戸時代には家康の子徳川頼宣が 50万石の大名として封じられた。家康は晩年隠退して駿府(静岡市)に住し,死後は久能山に埋葬された。頼宣が紀伊国に移ったあと,2代将軍徳川秀忠の三男徳川忠長駿府城に入った。藩としては田中藩(本多氏),小島藩(松平氏),松永藩(大久保氏)が置かれ,のちに沼津藩(水野氏)が設置され幕末にいたった。慶応3(1867)年将軍徳川慶喜大政奉還を行なうと,徳川氏徳川家達に相続させ,駿府 70万石に封じた。明治2(1869)年静岡藩が置かれ,同 4年廃藩置県で静岡県となった。

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デジタル大辞泉の解説

するが‐の‐くに【駿河国】

駿河

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百科事典マイペディアの解説

駿河国【するがのくに】

旧国名。駿州とも。東海道の一国。現在の静岡県中央部。《延喜式》に上国,7郡。中世の守護は北条氏の得宗(とくそう),次いで今川氏。同氏滅亡後,徳川氏の領。近世,駿府(すんぷ)城代がおかれ,同時に沼津・小島(おじま)・田中の3藩が新設された。
→関連項目静岡[県]静岡[市]中部地方初倉荘

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

するがのくに【駿河国】

現在の静岡県中東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の静岡市におかれていた。平安時代には皇室領、摂関(せっかん)家荘園(しょうえん)のほか、伊勢神宮御厨(みくりや)が各地にあった。鎌倉時代には北条(ほうじょう)氏守護職を世襲、南北朝時代以降は、今川氏が領国支配を続けた。1560年(永禄(えいろく)3)の桶狭間(おけはざま)の戦い今川義元(いまがわよしもと)織田信長(おだのぶなが)に敗れたのちは一時期武田信玄(たけだしんげん)の支配下にあった。1582年(天正(てんしょう)10)に徳川家康(とくがわいえやす)が領有、江戸幕府成立後、ここに隠退した。江戸幕府は駿府(すんぷ)城代をおき、同時に数藩を併置、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により静岡県となった。◇駿州(すんしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

するがのくに【駿河国】

旧国名。駿州。現在の静岡県の中東部,大井川以東,伊豆半島を除く地域に位置する。
【古代】
 東海道に属する上国(《延喜式》)。国名スルガは,富士川以東の地域にあった〈珠流河国〉の名を継承したものと思われる。珠流河国造と廬原(いおはら)国造の支配領域をあわせて駿河国が形成されるのは7世紀中葉と思われ,680年(天武9)には2郡を割いて伊豆国を分置した。志太(しだ),益頭(津)(ましつ),有度(うと),安倍,廬原,富士,駿河の7郡を有し,当初は中国であったが,奈良時代末の768年(神護景雲2)ころまでには上国に転じた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

駿河国
するがのくに

現在の静岡県東部および中部に位置した旧国名。駿州(すんしゅう)。大井川より東の部分で伊豆国を除いた地域である。大化改新前にあった珠流河(するが)国(富士川以東)と廬原(いほはら)国(富士川以西)、それに伊豆国の3国が大化改新による国郡制の施行によって統合されて駿河国になり、さらに680年(天武天皇9)伊豆国が分かれて、後の駿河国の範囲となった。「スルガ」の語源については、富士山・愛鷹(あしたか)山麓(さんろく)に自生するヤマトリカブトのアイヌ語「スルグラ」に由来するという説もあるが、流れが速く鋭い富士川にちなんだものともいう。737、738年(天平9、10)の「駿河国正税帳(しょうぜいちょう)」によると、当時の耕地面積は9676町余、田租(でんそ)は1万4514石余で、人口は6万7500人と推定されている。郡は東から駿河(のち駿東(すんとう))、富士、盧原(庵原(いはら))、安倍(あべ)、有度(有渡)(うど)、益頭(ましず)、志太(しだ)の7郡があり、『和名抄(わみょうしょう)』には59郷が記されている。国府は初め旧珠流河のあった駿河郡駿河郷に置かれたと推定されるが、のち安倍郡に移された。現在の静岡市葵(あおい)区長谷(はせ)町付近と考えられている。伊豆国が独立するまでの間は上国(じょうこく)であったが、田方(たがた)・賀茂(かも)の2郡が分置して中国(ちゅうこく)となり、のちふたたび上国に復した。平安後期から鎌倉期にかけて、大沼鮎沢御厨(おおぬまあいざわのみくりや)、大津御厨など広大な伊勢(いせ)神宮領の御厨が生まれた。また、八条院領服織荘(はとりしょう)、円勝寺領益頭荘、熊野那智山(なちさん)領北安東(きたあんどう)荘などの荘園ができ、それら荘園の荘官および京都から下向した在庁官人などが土着し、有力な在地勢力ができた。鎌倉期の守護は、甲斐(かい)の武田信義(のぶよし)が1180年(治承4)富士川合戦の直前に駿河国守護に任じられたが、1184年(元暦1)以降は鎌倉期を通して北条得宗(とくそう)家が世襲していった。ついで南北朝期、今川範国(のりくに)が1338年(延元3・暦応1)、元弘(げんこう)・建武(けんむ)の争乱の軍功の賞として守護となり、今川氏が戦国期まで世襲した。室町期、駿河国は鎌倉府管轄の甲斐、伊豆両国に接する幕府の最前衛の国であったため、幕府と鎌倉府の対立が激しくなるにつれ、守護今川氏は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(1416)、永享(えいきょう)の乱(1439)などの反乱を鎮定する重要な役割を果たした。今川氏が1560年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に敗れ滅亡したのちは、一時期武田氏が領したが、1582年(天正10)には徳川家康が支配することになった。家康の関東転封後は駿府(すんぷ)城の中村一氏(かずうじ)ら小大名の分割領有となった。1607年(慶長12)大御所(おおごしょ)としてふたたび家康が入り、さらに徳川頼宣(よりのぶ)領、徳川忠長(ただなが)領となったが、忠長除封後は駿府城には城代(じょうだい)が置かれ、天領が広範に分布していた。江戸時代の石高(こくだか)はおおよそ25万石で、860か村を数える。特産は茶で、また東海道の宿場が12か所もあり、交通上の要衝であった。1868年(明治1)徳川家達(いえさと)が駿河のほか遠江(とおとうみ)、三河の70万石で入り駿河藩領となり、廃藩置県によって71年静岡県となった。[小和田哲男]

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