真庭村(読み)まにわむら

日本歴史地名大系 「真庭村」の解説

真庭村
まにわむら

[現在地名]月夜野町真庭

政所まんどころ村の北、利根川左岸に位置し、沼田町と三国街道を結ぶ越後往還が通る。永禄六年(一五六三)九月一日の猪俣邦憲判物(写、「吉田系図」所収)で吉田政重に年貢納入を申付けたなかに「卅貫文 間庭」がある。当地であろう。寛文郷帳によると田方五〇石余・畑方五〇石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では四五一石余。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上では高二三八石余、反別は田一二町九反余・畑一五町三反余。

真田信政の時代当村と政所村との宿割がなされ(→政所村、それ以前は字上真庭・八幡はちまん十王じゆうおうなどに点在して居住していたが、現在集落のある地域を宿割し、間口一二間、奥行三六間、一戸分四畝歩内外とし、抽選で入居を決めた。


真庭村
まにわむら

[現在地名]山元町真庭

南と東は坂本さかもと本郷、西は伊具いぐ島田しまだ(現角田市)、北は高瀬たかせ村。東の坂本本郷境を江戸浜街道が南北に通る。本村東方にはら上台うわだい北方鹿野かの西方新田しんでんの字地がある。一四世紀半ばと推定される三月二四日付の某預ケ状(相馬文書)に「陸奥国曰理郡 尼邪村」とある「尼邪村」は当地内をさすと思われる。文和二年(一三五三)四月二〇日の吉良貞家書下写(同文書)にも坂本郷内に「摩尼谷上下村」とあり、武石但馬守の一時的知行が認められている。寛永三年(一六二六)正月の大条兵庫(宗頼)宛の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によると「真庭田二町六反」「真庭原はりの町上平原朴木原畑十六町分」等が四ヵ年間の諸役免除を得て開発を認められ、開発後検地を受けるとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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