真田信利(読み)さなだ のぶとし

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真田信利」の解説

真田信利 さなだ-のぶとし

1635-1688 江戸時代前期の大名
寛永12年生まれ。真田信吉の子。叔父(おじ)の上野(こうずけ)(群馬県)沼田藩4代藩主真田信政が宗家信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩をついだため,明暦3年沼田藩主真田家5代となる。大増税政策や両国橋の普請遅延などを理由に天和(てんな)元年改易(かいえき)され,出羽(でわ)山形藩にあずけられた。貞享(じょうきょう)5年1月16日死去。54歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の真田信利の言及

【沼田藩】より

…上野国(群馬県)沼田に藩庁を置いた譜代小藩。初期は外様で,戦国末期,沼田周辺に進出していた真田昌幸が1590年(天正18)吾妻,利根郡下2万7000石を安堵され,嫡子信之を置いて立藩した。関ヶ原の戦のとき信之は東軍に属したため戦後,父の遺領信州上田領6万石を加増され,のち松代に移るが,沼田には真田氏5代約100年の治政が続いた。この間,北関東の要地を押さえて領国経営を進めたが,5代信利は江戸の両国橋御用材納入の遅延を理由に1681年(天和1)改易となった。…

【磔茂左衛門】より

…伝承によると彼は,上野寛永寺御用の偽文箱に将軍あて直訴状を入れ,板橋宿の茶屋に置いた。これが首尾よく将軍家に渡り,やがて藩主真田信利はとがめられて領地召上げとなり,領民は救われたが,茂左衛門は掟法によって磔刑になった,という。真田信利が,両国橋修理の遅滞と家中取締り並びに領内政治よろしからずとの理由で,81年(天和1)11月に改易になったことは事実であり,その後の幕府の検地で沼田藩は6万石とされた。…

※「真田信利」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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