真田信利(読み)さなだ・のぶとし

朝日日本歴史人物事典 「真田信利」の解説

真田信利

没年:元禄1.1.16(1688.2.17)
生年:寛永12(1635)
江戸前期の大名上野国沼田(群馬県沼田市)に生まれる。幼名は兵吉。初名は信澄,通称は伊賀守。真田信吉の次男。妻は松平(山内)忠豊の娘。寛永15(1638)年11月に父信吉が死去し兄熊之助が家督を相続するが19年12月6日に死去。信利は幼年であったため信吉の弟信政が後見として沼田城主となり,信利は沼田領小川村に5000石を知行して部屋住となる。明暦2(1656)年10月信政が松代藩を継ぐにおよび沼田領3万石を襲封。延宝8(1680)年閏8月風水災で破損した江戸の両国橋構架の助役を命じられるが,天和1(1681)年11月に至っても柱さえたたず,同月22日橋材納入の遅参と平生の所行,家中領内への悪政を理由に改易身柄は山形城主奥平昌章に預けられ,同地で没した。

(藤實久美子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真田信利」の解説

真田信利 さなだ-のぶとし

1635-1688 江戸時代前期の大名。
寛永12年生まれ。真田信吉の子。叔父(おじ)の上野(こうずけ)(群馬県)沼田藩4代藩主真田信政が宗家信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩をついだため,明暦3年沼田藩主真田家5代となる。大増税政策や両国橋の普請遅延などを理由に天和(てんな)元年改易(かいえき)され,出羽(でわ)山形藩にあずけられた。貞享(じょうきょう)5年1月16日死去。54歳。

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世界大百科事典(旧版)内の真田信利の言及

【沼田藩】より

…上野国(群馬県)沼田に藩庁を置いた譜代小藩。初期は外様で,戦国末期,沼田周辺に進出していた真田昌幸が1590年(天正18)吾妻,利根郡下2万7000石を安堵され,嫡子信之を置いて立藩した。関ヶ原の戦のとき信之は東軍に属したため戦後,父の遺領信州上田領6万石を加増され,のち松代に移るが,沼田には真田氏5代約100年の治政が続いた。この間,北関東の要地を押さえて領国経営を進めたが,5代信利は江戸の両国橋御用材納入の遅延を理由に1681年(天和1)改易となった。…

【磔茂左衛門】より

…伝承によると彼は,上野寛永寺御用の偽文箱に将軍あて直訴状を入れ,板橋宿の茶屋に置いた。これが首尾よく将軍家に渡り,やがて藩主真田信利はとがめられて領地召上げとなり,領民は救われたが,茂左衛門は掟法によって磔刑になった,という。真田信利が,両国橋修理の遅滞と家中取締り並びに領内政治よろしからずとの理由で,81年(天和1)11月に改易になったことは事実であり,その後の幕府の検地で沼田藩は6万石とされた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」