中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを結ぶ隅田川に架かる橋。現在の位置に架橋されたのは明治三七年(一九〇四)で、それ以前は下流寄りの
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京の隅田川に架設されている橋。中央区東日本橋2丁目と墨田区両国1丁目を結び,隅田川13橋の一つである。江戸の明暦の大火(1657)ののち,幕府は市街地の拡大のため墨東(隅田川の東)一帯を開発した。橋は大火の翌年に工事を開始し,翌1659年(万治2)に完成した。当初は大橋,向島の橋とも呼ばれたが,新大橋の完成後両国橋が正式名になった。橋名は川をはさみ武蔵と下総の両国に架されたことにちなんだものである。1719年(享保4)橋の東西の広小路を町人に貸し,水防のための収入を得た。以後,橋をはさんで見世物小屋など各種の店が繁栄し,夏の川開きや花火など江戸最大の繁華地となった。橋東の回向院(えこういん)での開帳や相撲もにぎわいをいっそう助長した。さらに東岸には釣場で有名な百本杭や大山石尊参りの行者たちの垢離場(こりば)も設けられていた。現在の橋は1904年改架,32年改修の橋で,江戸期の橋よりやや上流に架せられたものである。
執筆者:吉原 健一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東京の隅田川にかかる橋。中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶゲルバー型鉄橋。明暦大火の反省から1659年(万治2)木橋が架けられ,はじめは大橋,のちに武蔵・下総両国を結ぶところから両国橋の愛称でよばれた。江戸文化の中心として,花火・舟遊びをはじめとして浮世絵や落語の舞台としても有名。橋の両側は江戸最大の盛り場としてにぎわった。1904年(明治37)それまでよりやや上流に架けられた鉄橋は関東大震災にも落ちなかったが,震災復興計画により,32年(昭和7)改修されて現在に至っている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…長さは108間(194m余),建設に2343両余の費用を要したという。すでに隅田川には千住大橋と両国橋(大橋)の2橋があったため新大橋と名付けられ,江戸初期以来開発の進んだ本所・深川方面と日本橋との交通の便はこれによってよくなった。橋は松尾芭蕉の住居に近く,〈初雪やかけかかりたる橋の上〉〈ありがたやいただいて踏(ふむ)橋の霜〉の句がある。…
…しかし庶民には望むべくもなく,彼らは隅田川の橋に立って川風に涼を求める橋涼みをこととした。当時は橋のたもとは一つの盛場で,ことに両国橋際には,枇杷葉湯(びわようとう),白玉水,ところてん売などの茶店や,猿回し,軽業などの見世物小屋があり,納涼客をあてこんでにぎわった。〈千人が手を欄干や橋涼み〉という其角(きかく)の句は,この庶民の納涼を伝えたものである。…
※「両国橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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