山形藩(読み)やまがたはん

百科事典マイペディア 「山形藩」の意味・わかりやすい解説

山形藩【やまがたはん】

出羽国村山郡山形(現山形市)を城地とした藩。山形城主最上義光(よしあき)は1590年豊臣秀吉から最上郡・村山郡の本領を安堵され,1601年徳川家康から庄内3郡・由利郡を加えられて57万石の外様大名となった。1622年最上氏改易,その跡に東北の押さえとして鳥居忠政が22万石で入封(のち24万石)。鳥居氏も1636年改易され,以後藩主は目まぐるしく変遷,保科・松平結城)・松平(奥平)・奥平・堀田・松平(結城,再封)・松平(奥平,再封)・堀田(再封)・松平(大給(おぎゅう))と続いた。1764年幕府領となるが,1767年に秋元氏が入り4代78年にわたって在封,1845年に水野氏と替わって幕末を迎える。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり出兵するが,のち降伏,1870年水野氏は近江国朝日山へ移る。鳥居氏以降は譜代大名親藩で,堀田正亮・秋元凉朝水野忠精は藩主時代に老中に就任。領知は村山郡を中心とし,領知高は鳥居氏以後漸減,1644年の松平(結城)氏は15万石,1668年の堀田氏は10万石,1746年の松平(大給)氏および秋元氏は6万石,水野氏は5万石。領内支配は正保期(1644−1648)の松平(結城)氏以降おおむね郡奉行−代官の下に大庄屋を置き,各村名主を束ねた。藩領の縮小に伴い村山郡内は幕府領や他の小藩領が混在,1781年以降は郡内各領の総代名主や大庄屋がたびたび議定(郡中議定)を取り決め,治安取締ほかの同一政策を画した。特産は紅花や青苧(チョマ)など。城下山形は船町(ふなまち)河岸を外港(がいこう)とし,上方(かみがた)市場と最上川舟運(しゅううん)で結ばれる商業都市として発展した。

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改訂新版 世界大百科事典 「山形藩」の意味・わかりやすい解説

山形藩 (やまがたはん)

出羽国村山郡山形(現,山形市)に藩庁を置く藩。はじめ外様大名,まもなく譜代中藩。関ヶ原の戦後最上氏は加増をうけて57万石となり,村山・最上郡のほか庄内・由利郡を領有した。1622年(元和8)最上氏改易のあと譜代の鳥居忠政が22万石で入部し,36年(寛永13)には保科正之が20万石で入封している。山形藩は最上氏のあと元禄年間(1688-1704)まで城主の交替が8回もあり,はじめは村山地方一円を支配し,外様大名の多い東北に対して譜代大名による奥羽筋の押さえの役割を果たした。しかし68年(寛文8)入部の奥平氏以後は石高も9万石余となり,1746年(延享3)には6万石に縮小するなど,山形は譜代大名の左遷地となったといわれる。総検地は1623年に行われ,左京縄ともよばれたが,村高は普通の石盛法によらず斗代取米から算出した。以後領内の村高はこれが基準となっている。山形藩の縮小とともに村山郡内には幕領,小藩が散在し,その支配も錯綜状態となった。領内のおもな特産物としてベニバナ,青苧(あおそ)があり,元禄年間の役金対象額は,ベニバナが約400~500駄,青苧は約1000駄にのぼる。その後郡内の商品生産が発展し,その統制が複雑化すると,各領内の代表による郡中議定が結ばれた。また郡内には1801年(享和1)に村山一揆が起こり,天童,山形の周辺を中心とする広域闘争となったが,以後村山地方には一揆,騒動が頻発している。

 山形藩主は幕領期を除き13氏にのぼるが,統治期間のもっとも長いのは1767年(明和4)から78年間の秋元氏4代であった。そのあとに入った水野忠精は幕府の天保改革の失敗による左遷であった。水野氏は藩財政の施策として秋元氏以来の領内豪商・豪農を御用達とし,とくに城下の豪商を士格御用達や臨時御用達にとりたて,御用金を課している。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に荷担したがやがて降伏し,版籍奉還を経て藩主忠弘は山形藩知事となり,1870年(明治3)7月近江朝日山藩に転出。山形藩領は同年9月山形県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山形藩」の意味・わかりやすい解説

山形藩
やまがたはん

出羽(でわ)国村山地方の一部を領有した藩。戦国期以来の大名最上義光(もがみよしあき)が、関ヶ原の戦い後57万石の領地を安堵(あんど)されて成立した。成立期の所領は、置賜(おきたま)地方を除く現在の山形県全域と秋田県の南部に及んでいたが、1622年(元和8)義俊(よしとし)の代に、一族や有力家臣の争いにより改易に処された。その後、山形藩には譜代(ふだい)の鳥居忠政(とりいただまさ)が22万石で入封し、以後、保科正之(ほしなまさゆき)、松平(越前(えちぜん)家)直基(なおもと)、松平(奥平(おくだいら))忠弘(ただひろ)、奥平昌能(まさよし)、堀田正仲(まさなか)と頻繁に入転封が行われ、元禄(げんろく)年間(1688~1704)まで9回の交代をみた。その間、一時幕領となったこともある。山形藩は譜代藩として、鳥居氏入部以後しばらくは外様(とざま)大名の多い奥羽の押さえの役割を担ったが、1668年(寛文8)の奥平氏の入封以後は左遷の地ともみられるようになる。領地も保科氏までは20万石、奥平氏以後は10万石以下となった。その後、松平(越前家)、松平(奥平)、堀田各氏がふたたび入り、堀田氏が3代続いたあと、松平(大給(おぎゅう))乗佑(のりすけ)、秋元凉朝(すけとも)、水野忠精(ただきよ)の各大名が入部し幕末に至っている。秋元氏は6万石で4代78年続き、歴代山形城主としてはもっとも長い。水野忠精は、幕府の天保(てんぽう)の改革を主導して失敗した老中忠邦(ただくに)(浜松藩主)の子である。たび重なる山形藩主の転封と領地の減少で、村山地方の所領は幕領や諸藩の分領で入り組み、それが山形藩の基盤を不安定にしていた。1870年(明治3)水野氏の近江(おうみ)朝日山転封により廃藩、のち山形県となる。

[横山昭男]


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藩名・旧国名がわかる事典 「山形藩」の解説

やまがたはん【山形藩】

江戸時代出羽(でわ)国村山郡山形(現、山形県山形市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩、親藩(しんぱん)。藩校は経誼館(きょうぎかん)(別名:立誠堂(りっせいどう))。山形県の大半を領有していた外様山形藩の最上(もがみ)氏が1622年(元和(げんな)8)に改易(かいえき)され、陸奥(むつ)国磐城平(いわきたいら)藩の藩主で譜代の鳥居忠政(とりいただまさ)が22万石で入封(にゅうほう)した。鳥居氏入封は、外様大名が多い奥羽(おうう)の押さえを担ったものだった。しかし、以後は譜代や家門(かもん)が頻繁に入転封(にゅうてんぽう)(国替(くにがえ))して藩主が次々と交代、1668年(寛文(かんぶん)8)入封の奥平(おくだいら)氏以後は石高も10万石以下になり、譜代大名の左遷地といわれた。それに伴い村山郡は幕領や小藩が散在するようになって山形藩の財政基盤は不安定となり、1800年代には一揆や騒動が頻発した。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わって新政府軍と戦ったが降伏。1870年(明治3)に廃藩となり、山形県となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山形藩」の意味・わかりやすい解説

山形藩
やまがたはん

江戸時代,出羽国山形地方 (山形県) を領有した藩。最上義光 (もがみよしあき) が関ヶ原の戦いで東軍に属して 24万石の所領を安堵され,のち 33万石を加増されたが,元和8 (1622) 年に除封,代って鳥居氏が 20万石で入封,のち2万石加増。寛永 13 (36) 年には除封され,のち保科氏 20万石,松平 (結城) 氏 15万石,松平 (奥平) 氏 15万石,奥平氏9万石,堀田氏 10万石,松平 (結城) 氏 10万石,松平 (奥平) 氏 10万石,堀田氏 10万石,松平 (大給) 氏6万石,秋元氏6万石を経て,水野氏が弘化2 (1845) 年浜松から入封したが,明治3 (70) 年5月に近江朝日山へ移封のため,廃藩置県に先んじて山形民政局がおかれた。水野氏は譜代,江戸城雁間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「山形藩」の解説

山形藩

出羽国、山形(現:山形県山形市)を本拠地とした藩。初代藩主、最上義光は57万石の大大名。元和年間の最上氏の改易以降、藩主は頻繁に交代。幕末には奥羽越列藩同盟に参加。

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