矢口村(読み)やぐちむら

日本歴史地名大系 「矢口村」の解説

矢口村
やぐちむら

[現在地名]大田区矢口一―三丁目・下丸子しもまるこ一―三丁目・多摩川たまがわ一丁目・東矢口ひがしやぐち二丁目・千鳥ちどり一―三丁目・池上いけがみ八丁目

下丸子村の東、多摩川左岸の低地に立地し、南西対岸橘樹たちばな上平間かみひらま(現神奈川県川崎市中原区)・同郡下平間村(現同市幸区)、南は古市場ふるいちば村、南東は小泉こいずみ村。長禄四年(一四六〇)五月一〇日の旦那屋敷譲状案(熊野那智大社文書)によると、「矢口六郷」の旦那すべてが下里民部から子の釈迦女に譲られており、のちの(年代不明)実報院諸国旦那帳(同文書)にも「矢口六郷一円」が記載されている(矢口六郷は矢口・六郷か)

田園簿に村名がみえ、田方二九〇石余・畑五三石余、ほかに見取場田四反余・畑一一町八反余があり、すべて幕府領。寛文二年(一六六二)大坂城代青山宗俊領となるが、延宝六年(一六七八)封地変更で幕府領に復帰(寛政重修諸家譜・風土記稿)


矢口村
やぐちむら

[現在地名]安佐北区高陽こうよう町矢口

岩上いわのうえ村の西南太田おおた川東岸に位置する。東のふたつじよう山など東・北・南の三方は山に囲まれ、矢口川・絵坂えさか川・友竹ともたけ川などの小河川が山あいを縫って太田川に注ぐ。その流域耕地と民家が点在する。深川ふかわ郷から広島城下に通じる往還は、岩上村から夜山ようやま峠を越えて当村に入り、南の小田おだ村へ抜ける。往還沿いに小集落が形成されており、この辺りから東へ進み山を上りきった所が菰口こもぐちで、馬木うまき村および安芸郡温品ぬくしな(ともに現東区)に至る。西は太田川を挟んで沼田ぬまた中調子なかぢようし(現安佐南区)であるが、当村の北部には東野ひがしの(現安佐南区)の飛郷向保田があって、その対岸は東野村保田であった。


矢口村
やこうむら

[現在地名]栄町矢口・矢口神明やこうしんめい一―五丁目

北辺田きたべた村の北東に位置。万治四年(一六六一)の野論裁許絵図(興津区有)に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四六三石余で幕府領。ヤコウの訓を付す。享保八年(一七二三)より山城淀藩領で、同年には夫役永九六一文余・栗代永六〇文・茶役銭永二四文・山銭永二九八文・同鐚一貫一一文を課せられていた(淀藩領郷村帳)。江戸時代後期の村明細帳(湯浅家文書)によれば文禄三年(一五九四)・寛永八年(一六三一)などに検地を受けた。


矢口村
やぐちむら

[現在地名]阿久比町矢高やたか

稗之宮ひえのみや村の南に接し、東は角岡つのおか村、南の高岡たかおか村とは境界が入合っている。「寛文覚書」によれば、概高二一七石余、田地一一町九反一畝余、畑地二町六反四畝余、戸数四二、人口二一三。将軍上洛・朝鮮使節通行の時東海道鳴海なるみ宿などへ人馬を出すとある。「徇行記」によれば、民家は山間にあって「小百姓ハカリニテ貧村」で、耕地不足のため隣村ヘ出小作をする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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