矢山村(読み)ややまむら

日本歴史地名大系 「矢山村」の解説

矢山村
ややまむら

[現在地名]行橋市矢山・千仏せんぶつ内蔵うちのくら京都みやこ勝山かつやま上矢山かみややま

福丸ふくまる村・高来たかく村の西、入覚にゆうがく村の北に位置し、平尾ひらお台の南東麓の丘陵上に立地する。中世屋山ややま保の遺称地。近世には企救きく郡に所属し、南西京都みやこ郡矢山村(現勝山町)。同村とはもと一村で京都郡に属していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)平尾台の草刈権をめぐる利害対立から上矢山と下矢山に分村し、うち上矢山村は企救郡矢山村に、下矢山村は京都郡に属したという(「企救郡誌」「小森承之助日記」など)。元和八年人畜改帳には企救郡「屋山村」とみえ(京都郡には村名がみえない)、御蔵納分高三九石余、家数八・人数一五(うち山ノ口一・百姓一)、馬一・牛一、給人二人分高六九石余、家数一一・人数二五(うち百姓三)、牛二。

矢山村
ややまむら

[現在地名]勝山町矢山・上矢山かみややま

池田いけだ村の北西岩熊いわぐま村の北に位置し、平尾ひらお台南麓の矢山川によって開析された狭小な谷に集落が形成されている。天文二一年(一五五二)三月一一日、大内被官の温科盛長が下屋山村のうち四町分を後継の弥四郎に譲与している。この地は三五石分として与えられたにもかかわらず、当地からの収益は宇佐宮への支払七石五斗を除くとわずかに七石五斗なので、盛長は大内氏に替地を求めてきたという(「温科盛長譲渡状」竹井文書/福岡県史資料五)。翌二二年閏一月一五日の大内義長安堵状(同上)によると、温科氏は天文八年に大内義興から屋山を与えられていた。北東企救きく郡矢山村(現行橋市)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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