大内義興(読み)オオウチヨシオキ

デジタル大辞泉 「大内義興」の意味・読み・例文・類語

おおうち‐よしおき〔おほうち‐〕【大内義興】

[1477~1529]室町後期の武将。安芸あきなど6国の守護として勢力を振るった。永正5年(1508)前将軍足利義稙あしかがよしたねを将軍に復職させ、自らは管領代となった。

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精選版 日本国語大辞典 「大内義興」の意味・読み・例文・類語

おおうち‐よしおき【大内義興】

  1. 室町後期の武将。周防、長門豊前筑前安芸石見六国の守護。政弘の子。永正五年(一五〇八)入京して足利義稙(よしたね)を将軍に復し、自らは管領代となる。のち周防に帰り尼子氏戦い、山口で没した。法名凌雲寺傑叟義秀。文明九~享祿元年(一四七七‐一五二八

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改訂新版 世界大百科事典 「大内義興」の意味・わかりやすい解説

大内義興 (おおうちよしおき)
生没年:1477-1528(文明9-享禄1)

戦国時代の武将。政弘の嫡子。周防権介,のち左京大夫。周防,長門,豊前,筑前,石見,安芸の守護。細川政元に追われた前将軍足利義稙(義材)を保護し,1508年(永正5)中国勢を率いて上洛,将軍義澄,細川澄元を追い義稙を将軍に復させた。義興の在京は10年に及び管領代として山城守護を兼ね幕政を補佐し,11年には澄元らの反撃を洛北船岡山に破り従三位に叙された。以上の中央進出の背景には勘合貿易をめぐる細川氏との確執があり,16年義稙より貿易の主導権を獲得,寧波(ニンポー)の乱(1523)以後独占するに至る。しかし長期の領国不在は安芸国人層の離反と出雲の尼子経久の進出を招き,18年帰国し21年(大永1)以降尼子勢と安芸を中心に交戦した。支城鏡山城を陥れられたのに対し,友田氏の桜尾城を討ち毛利元就を味方につけるなど反撃したが,28年安芸佐西郡門山城に在陣中病を得て山口で没した。
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朝日日本歴史人物事典 「大内義興」の解説

大内義興

没年:享禄1.12.20(1529.1.29)
生年:文明9(1477)
戦国時代の武将。幼名亀童丸。官途は周防権介,左京大夫。政弘の子。明応3(1494)年,政弘の病により家督を継ぐ。周防・長門・豊前・筑前・石見などの守護。同5年から6年にかけて少弐政資が筑前に乱入したので,これを撃退。8年,家臣杉武明が義興を廃して義興の弟尊光を家督にしようとする陰謀が発覚。義興は武明を自殺せしめ,尊光は豊後に逃れた。翌年前将軍足利義稙が周防に下向すると,これを庇護した。文亀1(1501)年,少弐・大友氏と豊前,筑後に戦う。永正5(1508)年,義稙と共に上洛し義稙を将軍に復活させ,山城守護として活躍。同15年に山口に帰り,領国支配に専念する。大永1(1521)年より大内勢は出雲の尼子氏と安芸国内で戦い,一進一退攻防を繰り返した。享禄1(1528)年,安芸の陣中で病となり,山口で死去。2回遣明船を派遣,大永3(1523)年の遣明船は中国寧波にて細川氏の遣明船との抗争から争乱を起こした。<参考文献>近藤清石『大内氏実録』,福尾猛市郎『大内義隆』,米原正義『大内義隆』

(佐伯弘次)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大内義興」の意味・わかりやすい解説

大内義興
おおうちよしおき
(1477―1528)

山口を本拠とした戦国大名。政弘(まさひろ)の子。幼名亀童(きどう)丸。父の没する前年1494年(明応3)家を継ぎ、周防(すおう)、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、石見(いわみ)、安芸(あき)、のちに山城(やましろ)の守護を兼ねた。初世には家臣統制に苦心したが、武断よく領内を安定させた。前将軍足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))が義澄に追われて山口にきたのを保護し、1508年(永正5)軍を率いて京に上り、義稙を復職させ、細川氏にかわって管領代(かんれいだい)として10年間にわたり幕政をつかさどった。大内氏は足利氏一族の三管領家でないため管領にはなれなかったのである。公家(くげ)、諸大名との交際の作法に意を用い、伊勢(いせ)貞久から『大内問答(おおうちもんどう)』の書を伝授され、武家には珍しく従三位(じゅさんみ)となった。明(みん)貿易権を手中に収め、尼子(あまご)氏と戦った。

[福尾猛市郎]

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百科事典マイペディア 「大内義興」の意味・わかりやすい解説

大内義興【おおうちよしおき】

戦国大名。政弘の子。大内氏最盛期の国主。1494年家督を継ぎ,周防(すおう)・長門(ながと)・安芸(あき)・石見(いわみ)・豊前(ぶぜん)・筑前(ちくぜん)の守護。前将軍足利義稙(よしたね)を擁して1508年入京,義稙を将軍に復し自らは管領代(かんれいだい)となり,1516年以後遣明船の管轄を一任され,貿易独占の基礎を開く。→勘合貿易
→関連項目足利義稙大内氏細川高国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大内義興」の意味・わかりやすい解説

大内義興
おおうちよしおき

[生]文明9(1477)
[没]享禄1(1528).12.20. 山口
戦国大名。政弘の子。明応3 (1494) 年,家督を継ぎ,周防,長門,豊前,筑前,安芸,石見を領した。細川政元のために将軍職を追われ,同8年義興を頼って山口に来た足利義稙 (よしたね) を擁して京都に入り,永正5 (1508) 年将軍職に復させ,自身は管領代となった。また勘合貿易をめぐって細川氏と争い,同 13年に遣明船派遣の権利を得て貿易を独占するにいたった。しかし,その留守中尼子氏の進出などによって領国が不安定となったため,同 15年職を辞して山口に帰り,大永7 (27) 年には大友氏の助けを得て尼子経久と備後に戦ったが,病のため山口に帰り,没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大内義興」の解説

大内義興 おおうち-よしおき

1477-1529* 戦国時代の武将。
文明9年生まれ。大内政弘の子。周防(すおう),長門(ながと),豊前(ぶぜん),筑前(ちくぜん),石見(いわみ)の守護。永正(えいしょう)5年足利義稙(よしたね)をたてて京都にはいり,義稙を将軍に復職させる。みずからは管領代(かんれいだい)となり,山城守護をかねる。遣明船の派遣など対外貿易を積極的におこなった。大永(たいえい)6年尼子経久(あまこ-つねひさ)軍とたたかい,陣中で病にかかり周防にかえる。享禄(きょうろく)元年12月20日死去。52歳。幼名は亀童丸,六郎。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大内義興」の解説

大内義興
おおうちよしおき

1477~1528.12.20

戦国期の武将。周防・長門両国ほかの守護。政弘の子。1494年(明応3)家督。細川政元に将軍職を廃された足利義稙(よしたね)は,1500年周防国山口に下り,義興に保護された。08年(永正5)義稙を擁して上京,足利義澄・細川澄元を追い,義稙は将軍職を回復,義興は細川高国とともに実権を握り,管領代となった。11年京都船岡山の戦に勝利し,澄元らの反撃を退けた。18年領国経営に専念するため帰国。おもに安芸で尼子経久と勢力を争い,25年(大永5)には毛利元就(もとなり)を配下においたが,まもなく死没。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大内義興」の解説

大内義興
おおうちよしおき

1477〜1528
戦国時代の武将
政弘の子。周防 (すおう) ・長門・安芸・石見・豊前・筑前6カ国の守護となる。1499年将軍足利義澄のとき,前将軍義稙 (よしたね) が難をのがれて山口に来て頼ったので,1507年東上,翌年入京して義稙を将軍に復し,自分は管領代となり,11年間京都の治安維持につとめた。この間,'16年遣明船派遣の権限を義稙から一任され,日明貿易を独占。大内氏の全盛期を築いた。

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防府市歴史用語集 「大内義興」の解説

大内義興

 大内政弘[おおうちまさひろ]の子供で、1494年に大内家当主になります。将軍をやめさせられ、山口に逃れてきた足利義稙[あしかがよしたね]を保護し、再び将軍の座につけました。

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世界大百科事典(旧版)内の大内義興の言及

【安芸国】より

… 応仁の乱(1467)には大内与党の厳島神主竹原小早川らは西軍に,武田・毛利・吉川・沼田小早川らは東軍に属し,71年(文明3)には武田元綱や毛利豊元が西軍に応じた。乱後武田氏では元綱の子元繁が金山城主となり,99年(明応8)温科国親の反を平らげ,1507年(永正4)義稙を奉じて上洛する大内義興に従ったが,15年帰国するとかえって己斐城等を攻め,17年山県郡有田に出陣して敗死した。すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。…

【大友義鑑】より

…1515年(永正12)ころ家を継ぐ。初政で前代からの一族の反乱軍になやまされたが,大内義興の援などもうけてのりきり,後に義興の安芸出兵に援軍を送ったりした。また肥後へは次男菊法師丸を菊池重治(義国,義宗,義武とも)として送り込んだ。…

※「大内義興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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