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大内義興 おおうちよしおき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大内義興
おおうちよしおき

[生]文明9(1477)
[没]享禄1(1528).12.20. 山口
戦国大名。政弘の子。明応3 (1494) 年,家督を継ぎ,周防,長門,豊前,筑前,安芸,石見を領した。細川政元のために将軍職を追われ,同8年義興を頼って山口に来た足利義稙 (よしたね) を擁して京都に入り,永正5 (1508) 年将軍職に復させ,自身は管領代となった。また勘合貿易をめぐって細川氏と争い,同 13年に遣明船派遣の権利を得て貿易を独占するにいたった。しかし,その留守中尼子氏の進出などによって領国が不安定となったため,同 15年職を辞して山口に帰り,大永7 (27) 年には大友氏の助けを得て尼子経久備後に戦ったが,病のため山口に帰り,没した。

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デジタル大辞泉の解説

おおうち‐よしおき〔おほうち‐〕【大内義興】

[1477~1529]室町後期の武将。安芸(あき)など6国の守護として勢力を振るった。永正5年(1508)前将軍足利義稙(あしかがよしたね)を将軍に復職させ、自らは管領代となった。

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百科事典マイペディアの解説

大内義興【おおうちよしおき】

戦国大名。政弘の子。大内氏最盛期の国主。1494年家督を継ぎ,周防(すおう)・長門(ながと)・安芸(あき)・石見(いわみ)・豊前(ぶぜん)・筑前(ちくぜん)の守護。
→関連項目足利義稙大内氏細川高国

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大内義興 おおうち-よしおき

1477-1529* 戦国時代の武将。
文明9年生まれ。大内政弘の子。周防(すおう),長門(ながと),豊前(ぶぜん),筑前(ちくぜん),石見(いわみ)の守護。永正(えいしょう)5年足利義稙(よしたね)をたてて京都にはいり,義稙を将軍に復職させる。みずからは管領代(かんれいだい)となり,山城守護をかねる。遣明船の派遣など対外貿易を積極的におこなった。大永(たいえい)6年尼子経久(あまこ-つねひさ)軍とたたかい,陣中で病にかかり周防にかえる。享禄(きょうろく)元年12月20日死去。52歳。幼名は亀童丸,六郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大内義興

没年:享禄1.12.20(1529.1.29)
生年:文明9(1477)
戦国時代の武将。幼名亀童丸。官途は周防権介,左京大夫。政弘の子。明応3(1494)年,政弘の病により家督を継ぐ。周防・長門・豊前・筑前・石見などの守護。同5年から6年にかけて少弐政資が筑前に乱入したので,これを撃退。8年,家臣杉武明が義興を廃して義興の弟尊光を家督にしようとする陰謀が発覚。義興は武明を自殺せしめ,尊光は豊後に逃れた。翌年前将軍足利義稙が周防に下向すると,これを庇護した。文亀1(1501)年,少弐・大友氏と豊前,筑後に戦う。永正5(1508)年,義稙と共に上洛し義稙を将軍に復活させ,山城守護として活躍。同15年に山口に帰り,領国支配に専念する。大永1(1521)年より大内勢は出雲の尼子氏と安芸国内で戦い,一進一退の攻防を繰り返した。享禄1(1528)年,安芸の陣中で病となり,山口で死去。2回遣明船を派遣,大永3(1523)年の遣明船は中国寧波にて細川氏の遣明船との抗争から争乱を起こした。<参考文献>近藤清石『大内氏実録』,福尾猛市郎『大内義隆』,米原正義『大内義隆』

(佐伯弘次)

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防府市歴史用語集の解説

大内義興

 大内政弘[おおうちまさひろ]の子供で、1494年に大内家当主になります。将軍をやめさせられ、山口に逃れてきた足利義稙[あしかがよしたね]を保護し、再び将軍の座につけました。

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世界大百科事典 第2版の解説

おおうちよしおき【大内義興】

1477‐1528(文明9‐享禄1)
戦国時代の武将。政弘の嫡子。周防権介,のち左京大夫。周防,長門,豊前,筑前,石見,安芸の守護。細川政元に追われた前将軍足利義稙(義材)を保護し,1508年(永正5)中国勢を率いて上洛,将軍義澄,細川澄元を追い義稙を将軍に復させた。義興の在京は10年に及び管領代として山城守護を兼ね幕政を補佐し,11年には澄元らの反撃を洛北船岡山に破り従三位に叙された。以上の中央進出の背景には勘合貿易をめぐる細川氏との確執があり,16年義稙より貿易の主導権を獲得,寧波(ニンポー)の乱(1523)以後独占するに至る。

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大辞林 第三版の解説

おおうちよしおき【大内義興】

1477~1528) 室町末期の武将。周防を中心とする六か国の守護。1508年将軍足利義澄を追って義稙よしたねを将軍職に復させ、自らは管領代となる。対明貿易権を独占した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大内義興
おおうちよしおき
(1477―1528)

山口を本拠とした戦国大名。政弘(まさひろ)の子。幼名亀童(きどう)丸。父の没する前年1494年(明応3)家を継ぎ、周防(すおう)、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、石見(いわみ)、安芸(あき)、のちに山城(やましろ)の守護を兼ねた。初世には家臣統制に苦心したが、武断よく領内を安定させた。前将軍足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))が義澄に追われて山口にきたのを保護し、1508年(永正5)軍を率いて京に上り、義稙を復職させ、細川氏にかわって管領代(かんれいだい)として10年間にわたり幕政をつかさどった。大内氏は足利氏一族の三管領家でないため管領にはなれなかったのである。公家(くげ)、諸大名との交際の作法に意を用い、伊勢(いせ)貞久から『大内問答(おおうちもんどう)』の書を伝授され、武家には珍しく従三位(じゅさんみ)となった。明(みん)貿易権を手中に収め、尼子(あまご)氏と戦った。[福尾猛市郎]

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世界大百科事典内の大内義興の言及

【安芸国】より

… 応仁の乱(1467)には大内与党の厳島神主竹原小早川らは西軍に,武田・毛利・吉川・沼田小早川らは東軍に属し,71年(文明3)には武田元綱や毛利豊元が西軍に応じた。乱後武田氏では元綱の子元繁が金山城主となり,99年(明応8)温科国親の反を平らげ,1507年(永正4)義稙を奉じて上洛する大内義興に従ったが,15年帰国するとかえって己斐城等を攻め,17年山県郡有田に出陣して敗死した。すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。…

【大友義鑑】より

…1515年(永正12)ころ家を継ぐ。初政で前代からの一族の反乱軍になやまされたが,大内義興の援などもうけてのりきり,後に義興の安芸出兵に援軍を送ったりした。また肥後へは次男菊法師丸を菊池重治(義国,義宗,義武とも)として送り込んだ。…

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