朝日日本歴史人物事典 「矢沢頼尭」の解説
矢沢頼尭
生年:寛政7(1795)
江戸後期の信州松代藩重臣。通称ははじめ千十郎,のち監物。諱は頼尭,のち藩主真田幸貫の1字をもらい貫道と改める。父は頼容。矢沢氏は藩主真田氏の一族で,その祖先真田頼幸が信州小県郡矢沢の城主であったことから矢沢を称している。無役席と称して代々真田家臣団のなかの最高身分として遇された。初め知行1200石。文政9(1826)年家老職を命ぜられ,同12年に御側役勝手掛となり藩財政の統轄の任に当たった。藩主真田幸貫の信任を得て,兵制改革,教育振興,殖産奨励,荒地開墾などの諸政策をおし進め,また幸貫の幕府老中就任問題でもその実現に貢献した。天保11(1840)年には天保飢饉に際して救恤の功ありとして200石加増。翌12年に江戸で病死した。<参考文献>太平喜間多編『松代町史』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報