矢田郷
やたごう
上総国佐是郡の郷村で、現市原市矢田に比定される。文治二年(一一八六)一月二一日の源頼朝下文写(烟田文書)に上総国佐是郡内矢田・池和田両村とあり、矢田村と池和田村は公事優免・一色別納の地として権介(上総介広常)の娘に宛てられ、年貢は加々美小次郎(小笠原長清)に弁ずることが命じられている。承久三年(一二二一)四月五日の矢田尼譲状写(同文書)では嫡女富塚尼に矢田・池和田地頭職が譲与され、富塚尼一期のあと、静寛が知行することとされた。
矢田郷
やたごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「方廃村存」として現大和郡山市矢田町付近に比定。「続日本紀」和銅七年(七一四)一一月四日条に「登美箭田二郷」、元慶三年(八七九)の大和国矢田郷長解(市島謙吉所蔵文書)に「矢田郷」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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