続日本紀
しょくにほんぎ
『日本書紀』に続く勅撰(ちょくせん)の歴史書。40巻。「六国史(りっこくし)」の2番目。697年(文武天皇1)より791年(延暦10)に至る95年間を編年体で叙述する。797年(延暦16)に全40巻が完成・奏上されたが、それまでの編集過程は複雑である。その概要は、『類聚国史(るいじゅうこくし)』所収の延暦(えんりゃく)13年8月13日付けの藤原継縄(つぐただ)の上表文と、『日本後紀(こうき)』にみえる延暦16年2月13日付けの菅野真道(すがののまみち)の上表文によって知られる。前半の文武(もんむ)朝より聖武(しょうむ)朝に至る部分の草稿は比較的早くつくられ、光仁(こうにん)朝ごろまでに孝謙(こうけん)天皇紀とあわせて30巻に編集されたが、その後、問題の多い757年(天平宝字1)を扱った1巻が紛失し、光仁朝に石川名足(いしかわのなたり)、淡海三船(おうみのみふね)、当麻永嗣(たいまのながつぐ)らが残りの29巻に補修を加えて奏上した。後半の部分は758年から777年(宝亀8)までが、光仁朝に石川名足、上毛野大川(かみつけぬのおおかわ)らによって20巻に編述され、桓武(かんむ)朝に藤原継縄、菅野真道、秋篠安人(あきしののやすひと)らがこれを修正して14巻とし、続く778年から791年までの部分は、継縄、真道、中科巨都雄(なかしなのこつお)らにより6巻に編集され、758年以降の部分はあわせて20巻となった。また同じ人々は前半の29巻を修正するとともに、紛失した巻を改めて撰述し、あわせて20巻に編集し直した。こうして前後合計40巻が完成した。ただし継縄は奏上の前年に死去した。記事内容は、根本史料に忠実で信頼しうるが、一部に記事の重複や配列の誤りもある。古写本では鎌倉時代の金沢(かねさわ)文庫本(蓬左(ほうさ)文庫蔵)が最古。『国史大系』所収。注釈書には村尾元融著『続日本紀考証』、佐伯有義著『校訂標注続日本紀』がある。
[直木孝次郎]
『坂本太郎著『六国史』(1970・吉川弘文館)』
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続日本紀
しょくにほんぎ
文武1 (697) 年から延暦 10 (791) 年までの編年体の正史。六国史の一つ。 40巻。延暦 16 (797) 年成立。たびたび編集担当者が変ったため編集上の不手ぎわがあり,重複記事があったり原史料をむやみに引用しすぎる欠点がある。前半の 20巻は菅野真道ら,後半の 20巻は藤原継縄 (727~796) らによって完成。『日本書紀』と違い中国に国威を誇示しようとする意図がないため,詔勅などを正規の漢文に直さず宣命体 (せんみょうたい) のまま載せるなど,文飾や誇張記事が少い。奈良時代の根本史料。『国史大系』所収。
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しょくにほんぎ【続日本紀】
平安初期の官撰国史。いわゆる六国史
(りっこくし)の第二番目で「日本書紀」につぐ。四〇巻。
光仁天皇の命によって石川名足・淡海三船らが
撰修をはじめ、藤原継縄・菅野真道らに撰進事業が継承されて、延暦一六年(
七九七)奏上された。文武元年~延暦一〇年(
六九七‐七九一)の九五年間にわたる編年体の記録。「
続紀」とも。
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続日本紀
しょくにほんぎ
平安初期の勅撰歴史書。六国史の第2番目
40巻。『日本書紀』のあとをうけて,697年より791年まで,文武天皇から桓武天皇に至る95年間の歴史を編年体で記した記録。成立過程は複雑で,石川名足・淡海三船 (おうみのみふね) ・藤原種継・菅野真道と継がれ797年完成。奈良時代の根本史料として重要。
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デジタル大辞泉
「続日本紀」の意味・読み・例文・類語
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しょくにほんぎ【続日本紀】
《日本書紀》につぐ勅撰史書。六国史の第2。漢文編年体で,文武1年(697)1月から延暦10年(791)12月までを含み,全40巻。編纂過程は複雑であるが,《類聚国史》に収められている延暦13年8月13日付の藤原継縄の上表文と,《日本後紀》にみえる延暦16年2月13日付の菅野真道の上表文によって,概要が知られる。まず(1)文武~孝謙紀(文武1年1月~天平宝字2年7月)が淳仁朝に30巻として撰修されたが,その発議は藤原仲麻呂によるらしい。
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