知覧郷(読み)ちらんごう

日本歴史地名大系 「知覧郷」の解説

知覧郷
ちらんごう

鹿児島藩の近世外城の一つ。給黎きいれ郡に所属し、鹿児島城下の南西八里半余の地にある(三国名勝図会)。知覧佐多氏の私領。江戸時代初期は中世知覧院の伝統を受継いで知覧郡として扱われており、正保三年(一六四六)幕府に提出した薩摩・大隅・日向・琉球高目録(旧記雑録)に知覧郡は高六千八三八石余とある。しかし寛文四年(一六六四)の島津久茂覚書(同書)によると、知覧郡は「和名抄」にみえないことなどを理由に喜入きいれ郡に合併され、郡名の表記も給黎郡と改められた。これにより給黎郡知覧郷が成立し、同年の郡村高辻帳には知覧郡は給黎郡に加えられたとある。当時の知覧郷は長里ながさと(永里村)こおり村・東別府ひがしべつぷ村・西別府村の四村から構成されていたが、正徳年間(一七一一―一六)頃までに郡村から厚地あつち村、永里村から瀬世せせ村が分村して六村となった。

文禄四年(一五九五)種子島久時の私領となるが、慶長四年(一五九九)島津氏直轄領(のち鹿児島藩直轄領)となる(種子島家譜)。同一五年に中世の知覧領主佐多氏の支配が復活、これは一二代佐多忠充の時のことである(佐多氏系図)。寛文四年の郡村高辻帳によれば郷高は六千八三八石余となり、忠充に給与されたのはわずか二千三〇〇石余(本藩人物誌)。知覧本領の一部の知行であったが、忠充は同時に知覧地頭に任命されており、実質的には支配者としての地位を回復した。忠充は城下士として鹿児島城下に居住し、知覧には一族の久信を地頭代として派遣している(同書・佐多氏系図)。知覧郷が佐多氏の私領になるのは、延宝五年(一六七七)一六代佐多久達の時からである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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