永里村(読み)ながさとむら

日本歴史地名大系 「永里村」の解説

永里村
ながさとむら

[現在地名]知覧町永里

ふもと川の上流域から永里川の上流域に位置し、北はこおり村、南西瀬世せせ村。知覧郷の野町がある。長里とも記される。「三州御治世要覧」に京竿(文禄検地)の節に瀬世村に合併し、のちに分村したとある。中世知覧院に属し、郡村との境に知覧城跡がある。「山田聖栄自記」に「長門事ハ馬飼所少給、長里と云所へ落下」とある。これは応永二七年(一四二〇)守護島津久豊が当時知覧を押領していた長門、すなわち今給黎久俊を服従させたのちのことを記したものである(「西藩野史」など)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に長里村とみえ、高二千一一九石余(瀬世村を含む)

永里村
ながさとむら

[現在地名]久保田町大字久保田

金丸かなまる村の西。横江よこえ村・金丸村を結ぶ中世の海岸線上で、自然陸化から干拓へ移行する漸移線上とみられている。

正保絵図に村名がみえる。天明三年(一七八三)郷村帳には、永里村の小字に上永里・下永里の記載がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報