川辺郷(読み)かわなべごう

日本歴史地名大系 「川辺郷」の解説

川辺郷
かわなべごう

鹿児島藩の近世外城の一つ。河辺郡に所属して同郡の北東部に位置し、鹿児島城下から七里半の地にある(「三州御治世要覧」など)。所属村は初め田之上たのうえ平山ひらやま小野おの清水きよみず宮下みやした神殿こうどの野崎のさき古殿ふるとの長田ながた(永田)野間のまみや田部田たべたの一二ヵ村と鹿籠かご(現枕崎市)の計一三ヵ村であったが(寛文四年郡村高辻帳)、のち鹿籠村は独立して鹿籠郷となり、平山村から今田いまだ村が、宮村から高田たかた村が分村して一四ヵ村となる。享保一一年(一七二六)田之上村宮下村が合併して両添りようぞえ村となり(三州御治世要覧)、以後一三ヵ村で幕末に至る。鹿児島藩直轄領で、慶長(一五九六―一六一五)頃に平山城の南に地頭仮屋が置かれ、周辺に衆中(郷士)が住む麓集落が形成され、近くに野町もあった。諸郷地頭系図は初代の地頭を永正(一五〇四―二一)頃の川上掃部介栄久とするが、鹿児島藩によって最初に任命されたのは慶長頃の三原備中守重種であろう。

川辺郷
かわのべごう

和名抄」高山寺本は「賀波乃倍」、刊本は「加波乃倍」と訓ず。嘉祥二年(八四九)一一月二〇日付山城国高田郷長解(柏木氏所蔵文書)に、

<資料は省略されています>

とあって郷名がみえる。秦氏の居住が確かめられ、高田郷とともに秦氏が広く蕃延していたことが知られる。おそらく川辺郷・高田郷は隣接していたであろう。ほかに本郷にかかわる資料として天長五年(八二八)のものと推定される山城国葛野郡班田図(お茶の水図書館蔵)に「川辺郷戸主秦忌寸」「川辺郷戸主秦大成」などの文言がみられる。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」所載の郷。同書に八例ある川辺郷のうち、訓注のあるものはすべて「の」を含むのでカワノベとよむ。川べりに発達した集落という地形・立地上の特徴に由来する郷名と思われ、美濃国内には厚見あつみ郡にも同名の郷がある。比定地は現川辺かわべ町のうち飛騨川右岸地域の上・中・下の川辺付近とするのが定説である。「日本地理志料」は同地区のほか同町石神いしがみ、現美濃加茂市山之上やまのうえ町の中之番なかのばんに及ぶとし、「大日本地名辞書」も山之上地区を郷域に含めているが、山之上地区は小山おやま郷などに比定する説もあり、確定的ではない。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本に「加ハ乃ヘ」、東急本に「加波乃倍」の訓がある。比定地については、現在の静岡市街西端部および静岡市安西あんざい籠上かごうえ松富まつどみ与一よいちなどの一帯とする説(大日本地名辞書)、現静岡市川辺かわなべ町などを含む安倍川沿いの地とする説(新版「静岡市史」)などがあるが、現存地名から後者の説が妥当か。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本の訓は「加波乃倍」で、「国用川述」と注記する。「播磨国風土記」に川辺里とみえ、勢賀せか川・砥川とがわ山の地名について記載があり、里名は川の辺にあることによるという。藤原京跡出土木簡に「(表)神前郡川辺里」「(裏)三宅人荒人俵」がある。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の山城国葛野かどの郡川辺郷の訓「賀波乃倍」(高山寺本)・「加波乃倍」(東急本)などを参考にし「かわのべ」と読む。大宝二年(七〇二)の筑前国嶋郡川辺里戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)が現存する。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」所載の郷。全国的に散見でき、いずれも「加波乃倍」「加八乃倍」などとよまれている。当郷もこれに倣うべきであろう。郷域について「大日本地名辞書」「濃飛両国通史」などは、上川手かみかわて・下川手という地名の残る厚見村(現岐阜市)にあてている。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」に「川辺」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、本郡野口平村ニ川野辺ト云フ地アリ、即古ノ河辺郷ナリ」とあり、比定地は定かでないが、郷域は現東茨城郡御前山ごぜんやま野口のぐち野口平のぐちたいら門井かどい、那珂郡大宮町小野おの小場おばの一帯とされる。

川辺郷
かわのべごう

「和名抄」刊本に「加八乃倍」と訓ずる。「大和志」は「已廃存下荘村」として現磯城しき郡田原本町大字三笠みかさに比定。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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