日本歴史地名大系 「石原田村」の解説 石原田村いしはらだむら 奈良県:橿原市多・耳成地区石原田村[現在地名]橿原市石原田町初瀬(はせ)街道北方に位置。西は山(やま)ノ坊(ぼう)村。天野文書に現桜井市の河合(かわい)城を援軍した石原田砦が興国元年(一三四〇)四月一九日に陥落したとあるが、詳細不明。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「松南院負所田地 康正二年十月四日検帳(中略)石原田ノ前ノトヲリ河ヲコシテ二町」とある。慶長郷帳の村高三九八・七六四石で、近世初期は旗本秋山右近領二三七・六石、旗本別所孫次郎領七七・五石、幕府領(代官楢村監物)八三・六六四石に分れていたが、元和二年(一六一六)別所氏改易で、同領は幕府領(代官竹村九郎右衛門)に編入、同五年全村が郡山藩(松平忠明)領。 石原田村いしはらだむら 茨城県:下館市石原田村[現在地名]下館市石原田大谷(おおや)川左岸に位置し、北は谷中(やなか)村。永仁二年(一二九四)一一月一一日の伊賀頼泰譲状案(飯野八幡宮文書)に「常陸国伊佐郡之内石原田郷」とあり、頼泰は子息光貞に譲与している。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き下館藩領。元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高二五三・四二石とあり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守十二神、家数二〇、馬五とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by