石州街道
せきしゆうかいどう
萩より石州境に至る近世の街道で、石州往還ともいう。益田(現島根県益田市)に至る仏坂道筋・土床道筋と津和野(現島根県鹿足郡津和野町)に至る白坂道筋・野坂道筋とがあった。
〔仏坂道筋〕
海辺往還ともいう。萩城下の唐樋札場を起点として北東に椿東分の小畑赤坂・猪熊、大井村ささこの浜を経て現阿武郡域に入り、奈古村芝田・木与村糀ヶ谷浜・宇田村田部・惣郷村御山(現阿武町)、須佐村の金井・西ノ惣門・大江津(現須佐町)、下田万村の袴田・仏坂(現田万川町)の各一里塚を伝い、北浦(日本海岸)沿いに石見国高角(現島根県益田市高津)・益田に至る。行程一二里の街道である。石州境の仏坂の一里塚には「従萩十二里、従赤間関三十六里十二丁」と記されていた(注進案)。
この道筋は石州街道のうち最長・最北端のコースで、途中大刈・小刈の難所(現阿武町)以外は海辺の道筋である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の石州街道の言及
【美和[町]】より
…北端に[羅漢山](1109m)がそびえ,町域のほとんどが山林である。江戸時代には岩国城下から玖珂郡北部を通り,石見(いわみ)国を抜けて萩城下に至る石州街道が通じており,街道沿いの渋前(しぶくま)には享保期(1716‐36)ころまで市が開かれていた。山林が多いため農家の経営規模は小さく,米作を中心に畜産,シイタケ栽培が行われ,特産に岸根(がんね)栗,茶がある。…
※「石州街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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