日本歴史地名大系 「津和野城下」の解説
津和野城下
つわのじようか
〔城下町の建設・整備〕
坂崎出羽守直盛は慶長五年秋津和野(三万石)を与えられ、翌年一〇月家臣団とともに津和野に入部すると、津和野城の大手を東に変え、城の東麓の津和野川沿いの平地(のちの殿町の地)に藩邸を置き、周辺に家臣団を配置するとともに、吉見氏時代の城下町を整備していった。翌七年一〇月の津和野中領御縄町屋敷帳(津和野町郷土館蔵)によれば、南北の通りの本市には間口一―八間・奥行六―一五間の町屋九九軒(四千六九三坪)、本市通に交差する東西道の
坂崎氏改易後の元和三年(一六一七)七月、亀井政矩が四万三千石を与えられて津和野に入部。政矩に随従した家臣人数は馬廻以上八九・卒六五九・鉄砲衆三三五の計一千八三人で(亀井家記稿本)、彼らも藩邸のある
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報