石松村(読み)いしまつむら

日本歴史地名大系 「石松村」の解説

石松村
いしまつむら

[現在地名]湯布院町川南かわみなみ 東石松ひがしいしまつ西石松にしいしまつ

温湯ぬるゆ村の南、大分川の左岸に位置し、東に倉木くらき山がそびえる。中世の石松名の遺称地。文和三年(一三五四)一〇月一六日に戸次浄心(重親)は家領を大友惣領大友氏時に譲っているが、そのなかに石松名も含まれている(「戸次浄心安堵申状案」大友文書)。永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)には並柳なみやなぎ酒久里しゆくりなどとともにみえ、石松名は大友惣領家の所領に組込まれている。貞治二年(一三六三)一二月の右田盛直目安状写(大倉氏採集文書所収右田文書)によれば、戸次浄心のときから右田氏が石松名の代官を勤めていたようである。

慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)に村名がみえ、高四三五石余。同一六年の家数五一・人数二三一(うち庄屋・肝煎二、本百姓一八・大工二)、牛馬四九(小倉藩慶長人畜改帳)、元和八年(一六二二)の高は四三二石余、家数四三・人数二四六(うち惣庄屋一、本百姓・小百姓一六、大工一・坊主一・名子二三)、牛三八・馬一二(小倉藩元和人畜改帳)


石松村
いしまつむら

[現在地名]日田西有田にしありた 石松町・さん宮町みやまち

坂本さかもと村の東方に位置し、南部を有田川が西流する。下柳しもやなぎに文明八年(一四七六)銘の宝篋印塔がある。天文一五年(一五四六)大友氏が置いた日田郡八奉行の一人として石松康正の城があったという(「豊後国志」など)。「日田造領記」などによると、郡老石松氏は日田永資の次男永徳を祖とし、塁は当地かぶ(蕪)にある。当時の惣領は「日田造領記」「日田記」「大友家文書録」は石松肥前守廉正、「豊西記」「豊後国志」は石松肥前守鑑正とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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