石丸村(読み)いしまるむら

日本歴史地名大系 「石丸村」の解説

石丸村
いしまるむら

[現在地名]宗像市石丸・石丸一―四丁目・赤間文教町あかまぶんきようまち

つり川上流右岸に位置する。西は陵厳寺りようげんじ村など、北はじよう山山麓を境に遠賀おんが上畑じようばた(現岡垣町)。城山山麓に沿うように東に向かって唐津街道(芦屋経由)が通り(宗像市史)、村の南側を赤間あかま宿から猿田さるた峠へ向かう赤間街道(木屋瀬経由唐津街道)が通っている。承久二年(一二二〇)一二月日の石清水検校譲状(石清水文書/鎌倉遺文四)、文永七年(一二七〇)三月日の宮清弥勒寺領注進抜書(同文書/鎌倉遺文一四)石丸保がみえ、「鎌倉遺文」では宗像郡とする。小早川時代の指出前之帳では鞍手くらて郡石丸村の田一五町四反余(分米二二一石余)・畠五町三反余(分大豆二九石余)


石丸村
いしまるむら

[現在地名]砺波市石丸

千代せんだい村の東にある。千保せんぼ川跡の左岸微高地に位置し、昭和三〇年(一九五五)頃まで東方に同川左岸の霞堤がみられた。城端じようはな道が通り、なかみや(現高岡市)からは二二町一二間、苗加のうか村までは一里一九町四〇間(越中道記)。元和五年(一六一九)の家高新帳に石丸とあり、開発組に属し役家数四。正保郷帳では高八三四石余、田方五二町六反余・畑方三町。


石丸村
いしまるむら

[現在地名]大田村石丸

波多方はだかた村の北に位置し、石丸川が流れる。杵築きつき高田たかだ道が通る。中世は田原たわら別符の内としてみえる。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、両子久左衛門手永の長岡市式部少殿知行分として高三〇二石余で、家数二一のうち本百姓・小百姓五、庭屋・牛屋一五、男二五(うち名子一・山守一)・女一六、牛五。正保郷帳では田原庄に属し、田高三〇五石余・畑高五五石余で、柴山有、日損所と注記され、新田があった。天保郷帳では高五四〇石余。


石丸村
いしまるむら

[現在地名]箕面市石丸一―三丁目・白島はくしま三丁目・外院げいん一丁目・石丸

白島はくのしま村の東にあり、北部は北方の勝尾かつお寺に連なる山地。南部は山地南麓斜面にあたり、集落がある。豊島てしま郡に属し、萱野かやの郷一一ヵ村の一。元暦元年(一一八四)九月日の摂津国垂水西牧萱野郷百姓等解(春日大社文書)に「石丸名」がみえる。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では西宿久村・坊ノ島村など七村とともに「石尼」とみえ、計八村で一千八九一石余。


石丸村
いしまるむら

[現在地名]峰山町字石丸

赤坂あかさか村の北に位置し、網野街道が村内を通る。北・西は竹野郡に接する。峯山藩領。

中世は石丸保の地。石丸保の名は「師守記」貞治六年(一三六七)五月一六日条の紙背に、

<資料は省略されています>

とみえる。丹後国田数帳には「石丸保 卅七町六段百四十四歩内」とあって、岩田肥前・井上石見が各々その半分を領していた。

江戸時代に入って、慶長検地郷村帳に高一五一・九八石「石丸村」と出る。


石丸村
いしまるむら

[現在地名]西区石丸二―三丁目・石丸・十郎川団地じゆうろうがわだんち

拾六町じゆうろくちよう村の北東にあり、北は下山門しもやまと村。西境近くを十郎川、その東を名柄ながら川が北流する。早良さわら郡に属する。近世初頭には下山門村など三ヵ村と山門村を構成したとも(続風土記)、かつては拾六町村の内であったともいう(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳によると、石丸村は田二五町五反余(分米三九〇石余)・畠一町六反余(分大豆一一石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高三四六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三四七石余、家数二八・寺一、人数一八七、枝村として新村をあげる(田圃志)


石丸村
いしまるむら

[現在地名]高岡市石丸

庄川の東、放生津ほうじようづ潟の南西部に位置し、村の東部を石丸川が南北に流れ、西は姫野ひめの村。正保郷帳では高三四石余、田方二町二反余・畑方三畝余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三四三石・免二ツ、明暦二年(一六五六)の新田高五〇石、小物成は野役四匁(四二匁退転)・川役一匁・猟船櫂役五匁退転(三箇国高物成帳)。天明六年(一七八六)の草高四四五石余、うち手上高として明暦二年一〇石、享保八年(一七二三)七石、寛保三年(一七四三)二石、明和八年(一七七一)六石、天明五年二二石余、新開高として明暦三年五〇石、元禄一五年(一七〇二)一五石がある(「高免等書上帳」折橋家文書)


石丸村
いしまるむら

[現在地名]三国町石丸

三国湊の東南で、兵庫ひようご川西岸の自然堤防上にあり、油屋あぶらや村の南に位置する。元文六年(一七四一)の御領分村名附(遠藤家文書)など「吉田村」と記すものもある。室町時代中期以前の記録と思われる「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(大乗院文書)には、政所名として「石丸名」がみえ、正応三年(一二九〇)に行われた検注分によれば坪江つぼえ下郷で六人いた番頭のうち一人が「石丸名」にいたことがわかる。

慶長三年(一五九八)検地帳末尾の部分を記した越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば総石高七五八・二二石、田方四〇町六反余・畑方一五町一反余であり、下田・下畑は合わせると三一町八反余になり、総田畑の約六割を占めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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