日本歴史地名大系 「石渡村」の解説 石渡村いしわたむら 長野県:長野市石渡村[現在地名]長野市大字石渡吉田(よしだ)村の東。東は南堀(みなみほり)村と吉田村から布野(ふの)渡に至る布野道で境し、西は吉田村太田(おおた)と水路で境し、南は北尾張部(きたおわりべ)村と境する。中世からの郷村で、明徳三年(一三九二)の「高梨薩摩守朝高并一族以下被付給人所々注文」(高梨文書)に、「同郡(水内郡)東条庄内石渡部郷・堀郷・尾張部散在郷(中略)彼所者、高梨与一知行無相違地也」とあって、東条庄内の郷村として存在し、「石渡部」ともいったが、嘉暦四年(一三二九)の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「右頭、東条庄内和田郷和田三河入道、付石渡戸・三和条・富武地頭等」とあって、「石渡戸」とも書き、古来一郷村であった。 石渡村いしわたりむら 青森県:弘前市石渡村[現在地名]弘前市石渡・石渡一―三丁目弘前城下の西北にあり、北は八代(やしろ)村、南は藤代(ふじしろ)村の支村田中(たなか)村、東は鳥町(ちようぢよう)村、西は土堂(つちどう)村に接する。「永禄日記」「平山日記」によれば、正保四年(一六四七)当村より独狐(とつこ)村までの新道ができている。延宝六年(一六七八)村内に藩の御蔵が建設されている(永禄日記、平山日記、津軽歴代記類)。寛文四年(一六六四)の高辻帳の鼻和(はなわ)郡の新田に村名があり、村高七五六石。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高二八〇・五三石と激減し、うち田方二五八・一三九石、畑方二二・三九一石、田位は上々田から下々田まであり、斗代は上々田が一・四石と高い。村中抱の観音堂があり、漆木はわずか一本。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by