朝日日本歴史人物事典 「石野広通」の解説
石野広通
生年:享保3.5.9(1718.6.7)
江戸中期の歌人。本姓中原。通称平蔵。大沢,蹄渓と号した。父は幕臣で大番役を勤めた広包。御納戸番,御膳奉行,御納戸頭,佐渡奉行,御普請奉行を経て西城御留守居に至る。幕臣として任務に篤実に対した。佐渡奉行としてまとめた佐渡の地誌『佐渡事略』や,御普請奉行として江戸の上水道を調査した折の報告書『上水記』などに,その姿勢をうかがうことができる。公務のかたわら,和歌を武者小路公野,高松重季,冷泉為村,冷泉為泰に学ぶ。特に為村・為泰2代の指導を仰いで,宝暦(1751~64)ごろには江戸冷泉門人の主要メンバーとなった。明和年間(1764~72)には江戸の武家歌人六歌仙のひとりに数えられる。当時の江戸武家歌壇では冷泉門人と賀茂真淵門の古学派が拮抗関係にあり,広通は冷泉派の中心人物として真淵一門の万葉調歌風攻撃の論陣を張った。その主張は歌学随筆『大沢随筆』『蹄渓随筆』などにみられる。また江戸堂上派の総合的私撰集『霞関集』を編集刊行した。家集に『五百四十首』,和文集『大沢文稿』など。必ずしも円満とはいい難い人柄からか,晩年は一族中心の狭い歌壇に安住した。師為村に対する辛辣な評価にも彼の厳しさを看取できる。<参考文献>松野陽一編『霞関集』,木村捨三「霞関集の人々」(『木村仙秀集』7巻)
(久保田啓一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報