日本歴史地名大系 「砂子関村」の解説 砂子関村すなごせきむら 山形県:西村山郡西川町砂子関村[現在地名]西川町砂子関寒河江(さがえ)川中流左岸、月山南麓にあたり、南向き斜面に集落がある。東は本道寺(ほんどうじ)村、六十里越街道は窄入蛇行する寒河江川の斜面を縫って続き、風吹(かざほこ)沢を過ぎるところは難所であった。西は椿(つばき)沢に沿って月山沢(つきやまざわ)村枝郷四ッ谷(よっや)に出て、それから弓張(ゆみはり)平に上る。標高四〇〇メートルを超し、地味がやせて農業は振るわない。慶長年間(一五九六―一六一五)まで六十里越街道の番所が置かれ、宿駅の役割をもっていた。最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領、寛永一五年(一六三八)以降幕府領。元和八年の高九石余(西村山郡史)。正保郷帳では畑方のみで、高五石余。寛文一三年(一六七三)の検地帳(砂子関区有文書)では高五石余、田畑合計八反九畝余とあるが、田は二四歩のみである。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報