本道寺村(読み)ほんどうじむら

日本歴史地名大系 「本道寺村」の解説

本道寺村
ほんどうじむら

[現在地名]西川町本道寺

寒河江さがえ川中流左岸、曲流に沿った低い河岸段丘に集落が立地する。月山から南に延びる尾根の端で、東に本道寺沢、西に風吹かざほこ沢が深い峡谷をつくって南流する。本導寺とも書く。六十里越街道の馬継場で、湯殿山参詣の宿場町でもあった。古く保土内ほどうちと称し、また湯殿山参詣の本道だから本道寺と名付けたともいう。東は水沢みずさわ村まで一里半。最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領となり、寛永一五年(一六三八)以降幕府領。白岩領であったことから、白岩本道寺しらいわほんどうじ村ともいう。元和九年の高二一石余(最上記)正保郷帳では田方一六石余・畑方五石余。寛文一三年(一六七三)検地でも高二一石余で、ほかに新田高四七石余があったが、高四四石余は「前々鹿野畑荒」とある(本道寺区有文書)。元和二年の田畑帳(同文書)には、田が二五〇刈、畑が代二八四文・出目かの共代三二〇文とあり、居屋敷一八軒、名子四軒、脇坊に梅本坊・三光坊など五坊、一台飯坊に宝蔵坊など三坊、ほかに六十里清水屋敷が一二軒あった。享保八年(一七二三)村明細帳(同文書)によると高は変わらず、小物成として真綿と麻の売出役、漆・同実代がある。


本道寺村
ほんどうじむら

[現在地名]筑紫野市本道寺

大石おおいし村の北東宝満ほうまん山南東麓の宝満川右岸にある。対岸は香薗こうぞの村。村名の由来は本道寺という寺があったことによるといい(地理全誌)、本堂寺(正保郷帳など)・本導寺(続風土記附録)とも書いた。油須原ゆすばる村の米山こめのやま(米ノ山峠)へ通ずる道が通っていた。小早川時代の指出前之帳では本堂寺村の田五町四反余(分米五〇石余)・畠二町二反余(分大豆一三石)。慶長石高帳には本道寺村とあり、慶長七年(一六〇二)の検地高は一六八石余。元禄五年(一六九二)には高二二〇石余、家数二六・社一、人数一二六(田圃志)。石高書上帳案では郡帳高一七七石余。


本道寺村
ほんどうじむら

[現在地名]西川町月岡つきおか

寒河江さがえ川中流右岸の沖積微高地に集落があり、対岸の同名村と区別するため、向本道寺むかいほんどうじ村とも称した。最上氏から元和八年(一六二二)幕府領となり、以後幕末まで続く。寒河江領であったため、寒河江本道寺村ともよばれた。「最上記」に向本導寺村とあり、元和八年の高八六石余。正保郷帳では田方九〇石余・畑方六石余。天保七年(一八三六)の家数四二(本郷二二・枝郷二〇)、人数二二一。慶応二年(一八六六)四一戸・二三三人(本道寺区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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