神蔵荘(読み)かみくらのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「神蔵荘」の意味・わかりやすい解説

神蔵荘 (かみくらのしょう)

神倉荘とも書く。鎌倉初期,肥後国託麻郡に成立した後白河院皇后建春門院御願寺最勝光院を本家とする荘園。ほぼ今日の熊本市の白川以南の部分を占め,詫麻西郷に属し,安富荘の託麻本荘に対し,詫麻新荘と呼ばれた。本来半不輸部分を多くふくむ郡名荘託麻荘があり,鎌倉幕府の成立にともなう荘園公領制の再編成によって成立したものであろう。成立後まもないころの領家は浄土寺大納言法師御房(藤原公房?)で,田数(公田)は28名716町5反であり,本年貢120疋を最勝光院御念仏衣服料として出すことになっていた。在地領主に宗形氏綱とその沽券(こけん)を受けた橘宗頼の名が見えるが,1199年(正治1)当時には関東補任の中原親能が下司,宗頼は下司代となっていた。1209年(承元3)親能の猶子大友能直が地頭下司職に補され,その子詫磨能秀が相続,以来詫磨氏が分割知行した。1337年(延元2・建武4)最勝光院執務職とともに神蔵荘領家職は東寺に付けられたが,鎌倉末には年貢上納は半減しており,南北朝期には荘園としての実体は失われた。
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百科事典マイペディア 「神蔵荘」の意味・わかりやすい解説

神蔵荘【かみくらのしょう】

肥後国託麻(たくま)郡にあった最勝光院を本家とする王家領荘園。神倉荘とも記される。託麻郡のうち託麻西郷の大部分を占めており,現熊本市の白川左岸の大湧水地帯の西部に広がる。初め郡名荘託麻荘があり,同荘が安富(やすとみ)荘と神蔵荘に分化,安富荘を託麻本荘というのに対し,当荘は託麻新荘とよばれた。成立直後の領家は浄土寺大納言法師御房(藤原公房か),田数は716町5段。1199年当時の下司は中原親能,下司代は橘宗頼。その後下司職は詫磨氏に相伝された。一方,王家領に属する得分の一部は大覚寺統に相伝された。南北朝期には荘園としての機能は失われた。

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