神門郡(読み)かんどぐん

日本歴史地名大系 「神門郡」の解説

神門郡
かんどぐん

出雲国北西部にあった郡。近世後期の郡域は北西から北は日本海に面し、北東は楯縫たてぬい郡・出雲郡、東は大原郡、南は飯石いいし郡、西は石見国安濃あの郡に接していた。ほぼ現在の出雲市、簸川ひかわ大社たいしや町・湖陵こりよう町・多伎たき町と佐田さだ窪田くぼた地区にあたる。

〔古代〕

「出雲国風土記」の神門郡の郡名由来に「神門臣伊加曾然が時に、神門貢りき。(中略)神門臣等、古より今に至るまで、常に此の処に居めり。故、神門と云ふ」とあり、「和名抄」東急本国郡部は「加无止」、元和古活字本は「加無止」とよむ。「日本書紀」推古天皇二五年六月条に、「出雲国言さく、神戸郡に瓜有り」とみえる。風土記には、朝山あさやま日置へき塩冶やむや八野やの高岸たかぎし古志こし滑狭なめさ・多伎の八郷と余戸あまりべ里・狭結さよう駅・多伎駅・神戸かんべ里を載せる。郡家は古志郷にあり、現出雲市古志町の東、神戸かんど川河岸辺りに比定され、現出雲市天神てんじん町および塩冶えんや町・有原ありはら町を中心とする天神遺跡からは官衙的遺構が発見されている。天平五年時の郡司は、大領外従七位上勲一二等神門臣、擬少領外大初位下勲一二等刑部臣、主政外従八位下勲一二等吉備部臣、主帳無位刑部臣が知られる(風土記)。同六年の出雲国計会帳(正倉院文書)に、神門郡人神門臣波理の名がみえる。神門郡家から出雲郡家へは出雲河(現斐伊川)を、飯石郡家へは堀坂ほりさか山や与曾紀よそき(現出雲市乙立町)を、石見国安濃郡多岐々たきき(現多伎町田儀の山)川相かわい(現大田市川合町)へそれぞれ道が通っていた。

「延喜式」神名帳に小座二七座が記され、弥久賀神社(風土記では美久我社、現湖陵町大池の弥久賀神社に比定)、阿禰神社(風土記では阿如社、現湖陵町二部の同名社に比定)、佐志武神社(風土記では佐志牟社、現湖陵町差海の同名社に比定)、多伎芸神社(風土記では多支枳社、現多伎町口田儀の同名社に比定)多伎神社(風土記では多吉社、現多伎町多岐の同名社に比定)、同社大穴持神社(風土記では多吉社、前記の多伎神社に合祀)、国村神社(風土記では国村社、現多伎町久村の同名神社に比定)、那売佐神社(風土記では那売佐社、現出雲市東神西町牛谷の同名神社に比定)、同社坐和加須西利比売神社(風土記では那売佐社、前記那売佐神社に同じ)、佐伯神社(風土記には該当する神社はみえず、現出雲市神西沖町の同名神社に比定)、智伊神社(風土記では知乃社、現出雲市知井宮町の同名神社に比定)比布智神社(風土記では比布知社、現出雲市下古志町の同名神社に比定)、同社坐神魂子角魂神社(風土記では又比布知社、前記智伊神社と同所)朝山神社(風土記では浅山社、現出雲市朝山町上朝山の同名神社に比定)、阿利神社(風土記では阿利社、現出雲市塩冶町の同名神社に比定)、同社坐加利比売神社(風土記では阿利社、前記の阿利神社に同じ)、八野神社(風土記では矢野社、現出雲市矢野町の同名神社に比定)、大山神社(風土記では大山社、現出雲市小山町の同名神社に比定)、久奈為神社(風土記では久奈為社、現出雲市古志町の久奈子神社に比定)塩冶神社(風土記では夜牟夜社、現出雲市上塩冶町の同名神社に比定)、富能加神社(風土記では保乃加社、現出雲市所原町の同名神社に比定)、塩冶比古神社(風土記では同夜牟夜社、前記塩冶神社に同じ)、塩冶比古麻由弥能神社(風土記では該当する神社はみえず、前記塩冶神社に同じ)、比那神社(風土記では比奈社、現出雲市姫原町の同名神社に比定)、阿須利神社(風土記では阿須理社、現出雲市大津町の同名神社に比定)、神産魂命子午日命神社(風土記には該当する社名はみえず、前記塩冶神社に同じ)、塩冶日子命御子焼大刀天穂日子命神社(風土記には該当する社名はみえず、前記塩冶神社に合祀)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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