二番町
にばんまち
[現在地名]高岡市二番町
東西に延びる両側町。通町の中ほどを東に折れて当町に入り、東端は白銀町。北側に御馬出町が並行する。本町で、町名は二番目に成立したことによると伝える。初め答野島村の百姓平六が米屋を営んだという(高岡町由緒聞書)。千保川右岸に近く、青果物の集散地であった。時割は五時八厘、地子地四二〇歩二厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め三千一七一坪七合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数八九(家数書上帳)、文政四年(一八二一)の高岡大火では馬借持一軒を含め全町一〇四軒と、町会所・大泉寺・永明寺を焼失(高岡史料)。明治五年の家数一〇三(同書)。承応元年(一六五二)町奉行所が置かれた。
二番町
にばんまち
[現在地名]大野市本町・元町・明倫町
一番町の東にあり、二番通の両側町。道幅五間の中央に用水が通る。七間通を境に南と北に分け上町・下町とした。寛保三年(一七四三)の町絵図(「奥越史料」所収)によれば、下町は高三九・九七二四石で家数七七(うち寺一)、上町は高二九・八五五石で家数五四。両町の庄屋は治兵衛。文久二年(一八六二)五月の人別寄帳控(布川家文書)では、上町は男二六四・女二八八、家数七〇(うち本家六〇・地名子一〇)、馬数九。下町は男二九四・女三一二、家数七二(うち本家六九・地名子二・医師一)。
町の北詰に浄土真宗本願寺派教願寺がある。
二番町
にばんちよう
[現在地名]松山市二番町三―四丁目
松山城下町のほぼ中央部、勝山(城山)の南麓近くを東西に通ずる町筋。東は小唐人町、西は城堀と南堀端町、南は三番町、北は一番町に接する。初めはこの地域を広く代官町と総称したようで、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)と推定される松山秘図(伊予史談会蔵)に代官町二番町と記入されているのを初見とする。武家屋敷が建ち並び、西端に東門屋敷・大普請所および家老職の稲川氏の邸宅があった。
文政一一年(一八二八)二月に、東門屋敷と家老長沼氏の邸跡に藩学明教館が設置された。
弐番町
にばんまち
[現在地名]富山市西町
壱番町の東に続き、北陸街道(巡見使道)に沿う両側町。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。安永八年(一七七九)の本家数二三・貸家数二二で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理では竈数五四、男九八・女九四、出張番所一、用心井戸一。郡役所との境に板橋があり、御上御普請であった。四つ辻が一ヵ所あり、南は太田口町通、北は惣曲輪通に続く。
二番町
にばんちよう
[現在地名]明石市日富美町・岬町
西樽屋町の南側にある両側町。東は三番町、西は一番町、南は新浜。当初は明石藩の人足二番組が住んだが(明石名勝古事談)、のち武家屋敷が不足したため家中町とし、藩士を住まわせた。
二番町
にばんちよう
[現在地名]福江市木場町 二番町
福江城の西、福江城下の外縁を守衛する位置にある。正保四年(一六四七)に町割された三ヵ町の一つで(五島編年史)、鉄砲衆が集住した。延宝六年(一六七八)の諸役付万定書(青方文書)では「弐番町」番役として小頭二・組子一八が勤めた。安政二年(一八五五)悪疫による死者を長山の居付の墓地と定めたが、一番町・三番町とともに大戸楽に改めている(「温故知新」五島編年史)。
二番町
にばんちよう
町は仁和寺街道の南側を主とし、西寄りは北側の一部を含む。南側は七本松通が南北に通る。平安京大内裏の「大蔵省」から「大歌所」の跡地(「拾芥抄」宮城指図)。町名由来は一番町と同じで、寛保初京大絵図に「二はん丁」と出る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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