福江村
ふくえむら
[現在地名]福江市
福江町・
新港町・
三尾野町・
松山町・
上大津町・
下大津町・
吉久木町・
大荒町・
木場町・
戸岐町・
奥浦町・
平蔵町・
籠淵町・
幸町・
錦町・
末広町・
中央町・
江川町・
栄町など
現市域の東部中ほどに位置し、東部は海に臨み、沖に蠑螺島などが浮ぶ。福江川が流れる。中世後期に大値賀島というのはのちの福江島をさしたようであるが、慶長国絵図に「大値賀城」と記され、近世においても大値賀は福江のことであった。また福江は古くは深江と称し、寛永一五年(一六三八)福江藩が石田陣屋の竣工を祝って深江を福江と改めたというが(五島編年史)、慶安三年(一六五〇)頃の日本図(下郷家蔵)に「ふかへ」、寛文八年(一六六八)の西国筋海陸絵図(国会図書館蔵)にも深江とみえ、その後も深江は「五島深江」などと長く通用した(安永七年長崎町絵図)。宝暦二年(一七五二)の肥前州五島地図(内閣文庫蔵)では福江に「フクエ」の訓が付されるものの、嘉永年間(一八四八―五四)の日本道中図にも深江とある。
南東部の大津一帯は早くから開かれ、また五島で最古の創祀という地主大神宮(五社神社)が鎮座する。中世には大津に宇久勝が辰ノ口城を築き、岐宿(現岐宿町)から移ってきたという。さらに五島盛定が大津より江川に移り(寛政重修諸家譜)、江川城を築城したとされる。ほかに天暦六年(九五二)の創立という天神宮(のち天満神社)、五島の惣鎮守と定められ文安五年(一四四八)宇久島(現宇久町)から移されたという正八幡宮(のち八幡神社)、天正一七年(一五八九)の創建という住吉宮がある。寺院では明徳二年(一三九一)の開創という清浄寺、文亀元年(一五〇一)創立という観音寺がある。文禄元年(一五九二)肥前名護屋(現佐賀県鎮西町)に在陣中の豊臣秀吉は五島に猪瀬彦作(湯野瀬孫作)を派遣して材木を求めたが、深江の大円寺山から杉を伐り出したという(五島家系譜・五島近古年代記)。
福江村
ふくえむら
[現在地名]坂出市福江町・福江町一―三丁目・大池町・青葉町・花町・池園町・小山町・笠指町・富士見町二丁目
坂出村の南に位置し、村域は金山(二八一・一メートル)、常山(二八三・三メートル)の西麓から、西方角山(一八四・二メートル)の東麓に至り、南は平地で鵜足郡川津村に続く。古くは海が当地まで入込んでいたと伝え、地名は深い江、深江から転じたものという。南北朝期成立の綾氏系図(続群書類従)には、小碓子皇子(日本武尊)の息男霊公(讃留霊公)が景行天皇の命によって「讃州椎門海」にすむ大魚を退治、魚とともに「福江湊浦」に寄り着いたという伝説が記される。この悪魚退治の伝説は人物名に違いをもちながら同工異曲で諸書に伝えられている。文明一六年(一四八四)三月二七日の井関良信房・地円坊連署売券(熊野那智大社文書)に「福江之玉泉坊」がみえ、熊野御師の旦那場があった。
福江村
ふくえむら
[現在地名]倉敷市福江
林村の西、東の天満山(一一〇・三メートル)、南の福南山(二八二メートル)などに囲まれた谷間に位置する。「撮要録」「備陽記」などによると、古くは火打村と称した。永禄一一年(一五六八)一〇月二六日の毛利輝元・元就連署禁制(黄薇古簡集)に、熊野十二所権現(現熊野神社)の神領三ヵ村の一つに「火打庄」とある。清田八幡宮の元和元年(一六一五)の上葺再興棟札に「火打村」とあり、同三年の児島郡物成帳では田畠合せて高七九石余。正保郷帳には福江村とあり、高二六八石余。享保六年(一七二一)の田畠二三町五反余、池五、家数五一・人数四〇六(備陽記)。
福江村
ふくえむら
[現在地名]下関市大字福江
現下関市の西部にあたり、竜王山(六一三・九メートル)の南西麓に広がる村。南は横野・安岡、北は吉見下、東は蒲生野の各村と接し、西は響灘に面する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。
天正二年(一五七四)九月晦日付三井吉左衛門家文書(「閥閲録」所収)に「豊西郡福江村国衙大給銭五貫文」とみえる。
慶長一五年(一六一〇)の検地帳によれば、総石高六五五石余、うち田三五町余で五二〇石余、畠二八町余で一一二石余、百姓屋敷八七。
福江村
ふくえむら
[現在地名]海津町福江
古中島村の南、長良川右岸に立地。慶長郷帳に村名がみえ、高一三五石余。慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によれば、福江村一三五石余などが石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)に与えられている。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では尾張藩領(石河氏給地)。正保郷帳でも同藩領で、田五八石余・畑五四石余、野年貢二二石余。明暦覚書によれば元和五年から尾張藩領で、概免五ツ五分五厘余、川運上金一両、人数一八二、馬二六。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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