私市庄
きさいちのしよう
古代の私部郷(和名抄)に立荘されたと考えられる荘園。由良川北岸の綾部市私市町および福知山市私市・報恩寺・山野口・印内の地域に比定される。当域は山野口川と印内川の沖積地が発達した所である。
荘名の初見は寿永三年(一一八四)四月二四日付源頼朝下文(賀茂別雷神社文書)である。賀茂別雷社(現上賀茂神社、京都市北区)神領四二ヵ所について武士の狼藉を停止したなかに丹波国私市庄があり、翌元暦二年(一一八五)四月二八日付関東下知状(同文書)に
<資料は省略されています>
とあって、賀茂別雷社の代々の氏人である久平なるものが、武士玉井次郎に当荘を寄せ押領に及んでいることが知られる。停止の下知にもかかわらず久平の押領は続いたようで、同年六月六日には次のような源頼朝下文(同文書)が出されている。
<資料は省略されています>
これによれば私市庄は賀茂別雷社の末社である四条坊門別宮(跡地は現京都市中京区)領であり、資保(賀茂別雷社権禰宜)が知行していることがわかる。また文治三年(一一八七)一〇月五日付右大臣藤原実定家政所下文(同文書)に
<資料は省略されています>
とあって、私市庄は藤原(徳大寺)家から寄進されたものであること、資保の権益は預所職であることが知られる。
私市庄
きさいちのしよう
坂田郡内にあった奈良東大寺領庄園。所在地は未詳。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)に「坂田郡私市庄田四町八段百卅歩」とみえ、長徳四年(九九八)の東大寺領諸庄注文(東大寺要録)にも記載があるが、弘安八年(一二八五)にはすでに東大寺の手を離れていた(同年八月日「東大寺注進状案」東大寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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