朝日日本歴史人物事典 「秋山信友」の解説
秋山信友
生年:生年不詳
戦国時代の武将。一説には生年を享禄2(1529)年とする。甲斐(山梨県)の武田信玄・勝頼父子に仕えた。信任の子。伯耆守。晴近,晴親とも。秋山氏は武田氏の一族加賀美遠光の後裔と伝える。信玄による信濃国(長野県)攻略,ことに伊那郡の計略に功があり,高遠城(上伊那郡高遠町),次いで飯田城(飯田市)を預かった。西方への領国拡張期には,伊那郡の兵を率いて遠江・三河・美濃に転戦した。元亀1(1570)年,遠山景任の守る東美濃の岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を攻めるが敗退。同3年城主の景任が病没すると,再びこれを囲んだ。織田信長は東の押さえとしてこの城を重視,5男御房丸(勝長)を城に入れ,景任の未亡人おつやの方(信長の叔母)に後見させていたが,信友の攻勢を前に,城方はおつやが信友に嫁すことなどを条件に和議を申し入れた。信友はこれを受諾。おつやを妻として以後ここに在城し,御房丸は人質として甲府に送られた。天正3(1575)年5月の長篠合戦で武田勝頼を破ったのを機に織田氏が攻勢に転ずると,岩村城は翌6月より信長の嫡男信忠の猛攻を受けた。籠城は5カ月におよんだがついに開城。信友は捕らえられ,岐阜長良川原で磔刑に処せられた。妻おつやも信長の手により斬首された。ところで信友は永禄11(1568)年,武田・織田両氏が和議を結び信忠と信玄の6女松姫の婚約が整った際,使者として岐阜へ赴き信長の歓待を受けている。その後和談は破れ,信友と信長・信忠父子の再会は悲劇的な形で実現したのであった。
(堀内亨)
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