1575年(天正3)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、武田勝頼(たけだかつより)と徳川家康・織田信長連合軍との合戦。長篠は信濃(しなの)(長野県)飯田(いいだ)から伊那(いな)の山間部を縫って三河吉田(豊橋(とよはし)市)に通じる要路上に位置し、城は豊川(とよがわ)上流の三輪川(みわがわ)・寒狭川(かんさがわ)合流点の段丘上に築かれていた。そのため甲斐(かい)(山梨県)から西上の機をうかがう武田氏と、三河の徳川氏との争奪が繰り広げられ、1573年(天正1)武田信玄(しんげん)が没すると徳川家康は長篠城を奪還、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を城将とした。
父信玄の遺志を継いだ武田勝頼は、足利義昭(あしかがよしあき)の招致を受けて西上の志をたて、1574年6月徳川方の遠江(とおとうみ)高天神城(たかてんじんじょう)(静岡県掛川(かけがわ)市)を陥れ、ついで1575年4月長篠城を包囲した。急報を受けた家康はただちに盟友織田信長の援軍を請い、信長は5月14日岐阜から岡崎に着陣、家康とともに長篠城救援に向かった。このとき長篠城から岡崎へ使者にたった鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が、帰路武田方に捕らえられ、城内へ援軍の到来を叫び報じて磔(はりつけ)に処せられた話は有名。信長は岐阜出発の時点からこの合戦において鉄炮(てっぽう)を主戦力として用いることを計画し、3000挺(ちょう)の鉄炮を準備、長篠城の西方設楽原(したらがはら)に馬防柵(ばぼうさく)を築いて陣を敷いた。勝頼も兵を設楽原へ移し、徳川・織田連合軍と対峙(たいじ)した。5月21日徳川の将酒井忠次(さかいただつぐ)らは武田方の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。後方を攪乱(かくらん)された武田軍は設楽原決戦を挑み、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に妨げられ、信長の側近部将が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びて多数の将士を失った。
一般に、この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとったと伝えられている。これに対して、実技上の見地からこの戦法が可能であったかどうか疑問とする説もある。戦いは午前8時ごろから午後2時ごろに及び、無勢となった武田軍は敗走、勝頼も身一つで信濃へ逃れた。武田方の戦死者は山県昌景(やまがたまさかげ)、土屋昌次(つちやまさつぐ)、馬場信房(ばばのぶふさ)などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10)滅亡を招いた。
この戦いにおいて、徳川・織田連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。
[渡辺江美子]
『高柳光寿著『長篠の戦』(1960・春秋社)』▽『井上鋭夫「天下布武」(『日本の合戦5 織田信長』所収・1978・新人物往来社)』
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