日本歴史地名大系 「稲屋村」の解説 稲屋村とうやむら 石川県:輪島市旧輪島市地区稲屋村[現在地名]輪島市稲屋町小伊勢(おいせ)村の南、鳳至(ふげし)川中流東岸の段丘・山地に立地、南東部に気勝(けかち)山(三四三・四メートル)がある。古くはいなやと称したともいう(能登志徴)。正保郷帳に村名がみえ、高一二六石余、田方七町一反余・畑方一町三反。承応三年(一六五四)の村御印の高一三三石余、免五ツ二歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一四二石、免六ツ、小物成は山役一二一匁・苦竹役六匁・漆役七匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)。享保一三年(一七二八)小伊勢村領境が川崩れとなり、杭を打ち境界を明確にした(「八百川原領境覚書」稲屋町区有文書)。嘉永二年(一八四九)当村が小伊勢・宅田(たくだ)・二ッ屋(ふたつや)の三ヵ村に卸した山での秣取・柴薪取・新開田畑につき相論となり、屎草取のみが認められたが、同四年当村から田一斗・畑二八〇歩余の新開証文を提出している(「請山取極書」同文書)。 稲屋村いなやむら 兵庫県:加古川市旧印南郡地区稲屋村[現在地名]加古川市加古川町稲屋(かこがわちよういなや)友沢(ともさわ)村の南東に位置する。正中三年(一三二六)に記された鶴林(かくりん)寺法華堂(太子堂)木部銘には法華堂の四和尚式部(年行事)が稲屋出身とみえる。永正一二年(一五一五)八月と、天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には、イナヤの刑部大夫が寄進した散田一段が記載される。慶長国絵図には「いなや村」とみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by