デジタル大辞泉 「奉公人」の意味・読み・例文・類語
ほうこう‐にん【奉公人】
2 主君に仕える武士。
平安時代後期以来,武士の封建的主従関係は,主人の従者に対する所領給与=〈御恩〉と,従者の主人に対する軍事的勤務=〈奉公〉という関係によって成立していたが,本来奉公人とは,武士のこの主従関係における従者をさし,主君に対する家臣の意味である。奉公人という称呼は,中世では上位の従者,家臣をさすものとして用いられるのが一般的であった。
→御恩・奉公
執筆者:佐藤 堅一
近世初頭までは侍身分の者をも奉公人のうちに加えていたが,江戸時代では将軍や大名,旗本・御家人や大名の家中に雇用された若党(わかとう),足軽,中間(ちゆうげん),小者(こもの),六尺,草履取(ぞうりとり),ときに徒士(かち)などの軽輩をさし,軽き武家奉公人ともいう。その平生の身分は百姓,町人であり,武家奉公中のみ家業として帯刀が許され,奉公さきの家来の取扱いをうけた。
武家奉公は中世の末期まで譜代奉公をもって本来の姿とした。しかし,近世に入るとそれは漸次人宿(ひとやど)(口入屋(くちいれや),桂庵(けいあん)),日用座(ひようざ)を通じて雇用される百姓,町人による給金めあての一季(いつき),半季の出替(でがわり)奉公や月雇(つきやとい),日雇へと移りかわっていった。江戸幕府は慶長(1596-1615)のころから一季奉公をしきりと禁じ(これは一季奉公人の多くあったことを示すものであろう),軍役の確保のため譜代奉公の維持につとめた。1616年(元和2)には年季を3年とし,25年(寛永2)にはそれをさらに10年へと延長した(これは制度上,98年(元禄11)に廃止)。しかし51年(慶安4)の令によると,このころすでに現実には一季奉公を認めていた節があり,53年(承応2)の令では一季はもとより半季の出替奉公も認めるにいたった。享保(1716-36)のころの江戸では譜代奉公は姿を消し,ついには月雇,日雇までも生じるにいたった。これ以降,出替奉公は武家の用人(ようにん)にまでおよんだという。ときにこのことは武家の主従関係に少なからぬ影響をもたらした。すなわち出替奉公人は譜代奉公人に比べて忠誠心に欠けることおびただしく,軍陣や上洛あるいは普請の際はもとより,平生でも欠落(かけおち)・逃亡する者があとをたたなかった。また登城下城時や城中での無作法,中間部屋での日常茶飯の博奕など不行跡は絶えなかった。
出替奉公は普通1年ごとに奉公の契約を結ぶものであったが,その時期(出替日限)は最初は2月とされ,旗本・御家人の奉公人のみを対象とした。しかし,1668年(寛文8)からは3月5日に改められ,これが江戸時代の永制となった。翌年には大名・家中の江戸で雇用する奉公人にも適用され,72年には全国におよぼされた。奉公人は人宿の口入によって雇用主の屋敷に出頭して御目見(おめみえ)をし,人柄が気に入られると即日食事を供されて,ただちに奉公し,それが数日にわたってのち,これでよしということになって,そこではじめて奉公の契約が結ばれて雇用された。そのときに請人(うけにん)(人宿),人主(ひとぬし)(身元保証人)から奉公人の人物,身元を保証し,奉公の契約期間,給金高その他を記した請状が雇用主に差し出され,奉公人には雇用主から給金の一部が内金として支給された。このあと奉公人は人宿に口入銭(周旋料)を支払った。このほかにも奉公人は,江戸城諸門をはじめ諸番所などを勤番する大名・旗本らに,それに必要な人員一組そっくり,たとえば小頭(こがしら),下座見(げざみ),足軽,小人(こびと),中間おのおの何人,何日間でいくらなどというぐあいに雇用されることがあった。
奉公人の給金は幕府によって定められた。1729年の1ヵ年の法定価によると,足軽は金2両2分より2両3分まで,中間は金1両1分より1両2分まで,六尺は金1両2分より2両3分までとなっている。しかし一般に支払われた給金は,これよりやや高めであったという。1842年(天保13)ころに実際に支払われていた1ヵ年の給金は,足軽は金3両より6両くらいまで,中間は金2両2分より3両くらいまで,六尺は金6両2分より12,13両くらいまで,おなじく日雇銭は,徒士は銭272文より300文,足軽は銭148文より224文,六尺は銀2匁5分くらいより10匁くらいまでであった。
執筆者:北原 章男
近世農村の奉公人は一般に譜代,下人,下男,下女などと呼ばれていた。その雇用関係の内容は時期により,また地方により多種多様であるが,身分関係,契約形式,労働対価支払方式,雇用期間などをメルクマールにして譜代下人,質券奉公人,居消(いげし)奉公人(押切奉公人,居腐(いぐされ)奉公人),年季奉公人(年切奉公人),出替奉公人(一季奉公人),日割(ひわり)奉公人,季節雇,日雇などの諸類型に区分される。これらの諸類型は,近代的な賃労働関係の発生する以前の,雇用関係の発展過程を示すものとして重視される。
農村での奉公人の性格は農業生産の発達によって変化する。近世前期の本百姓の自立期には,中世的遺制をまとう役負(やくおい)百姓(御館(おやかた),役家,公事屋(くじや),役人など)すなわち初期本百姓(本百姓)のもとに,譜代下人が抱えられていた。彼らは家内奴隷的性格が強く,主家に人身的に隷属して終身奉公する。自給的穀作農業を営む主家の農業経営は,譜代下人の労働と,自立過程にある小農(被官,家持下人,隠居など)の提供する賦役(ふえき)とによって支えられていた。譜代下人の成因には,中世以来の主家への隷属を継承したものと,人身売買の結果として発生したものとがある。近世の法制では終身の身売りを禁止していたが,農業生産力の水準の低さに規定されて,土地が売買・質入れの物件たりえないほどの不安定な農業を基盤にして,17世紀前半期には事実上の人身売買がひろく農村で行われていた。幕府・諸藩を通じて元和・寛永(1615-44)の時期には人身売買禁止令が多くみられ,1633年(寛永10)の幕府法令では人身売買禁止条項に加えて10年を限度とした年季制限条項が併設され,〈男女抱置年季拾ヶ年を可限〉とされている。しかし譜代下人の解放令は出されていない。
このような事情のもとで,人身売買の脱法行為としての人身の質入れが行われ,質券奉公人が現れる。初期の質券奉公人は債務期間中の労働を元金の利息だけにあてる〈利息働き〉である。債務期間が明記されていても元金を弁済しない限り身柄を受け出すことができず,質入れされた身柄は終身奉公となる。低い水準にある農業の条件下では,雇用主の側にも被雇用者の側にも譜代下人関係への要求が根強く,質券奉公人は事実上の譜代下人という性格を受け取る。
17世紀後半期以降,本百姓経営の確立にともなって奉公人の性格は譜代下人から年季奉公人へと変化する。しかし生産力の発展が低く,本百姓経営の自立が遅れた地方では,譜代下人が永く残存した。1767年(明和4)の信州伊那郡大河原村前島家の穀作に重点をおく自給的な4~5町余の農業経営では,所要労働の大部分が譜代下人と被官の労働でまかなわれ(被官百姓),年間総労働日数2600日のうち,被官の労働日数は218日(約8%)で,これは主として季節的な農繁期労働に充当され,恒常的な労働は譜代下人に依存していた。このような後進地に残存する譜代下人の実例から近世初期の譜代下人の姿を推測しうる。譜代下人が根強く存続する諸事情をふまえて,1698年(元禄11)の幕令では,年季制限条項が撤廃されて〈向後ハ年季之限無之,譜代ニ召仕候共,可為相対次第候……〉とされ,相対(あいたい)次第による譜代下人の召抱えが公認され,ついに近世の全期間を通して譜代下人の解放令をみることがなかった。
先進的農業の最先端をゆく大坂周辺農村においても,近世初期には,村落上層の初期本百姓の農業経営では,農業経営の所要労働は譜代下人の労働に依存していた。しかしここでは,早くから譜代下人に併存して年季奉公人が現れていた。1659年(万治2)の摂州武庫郡上瓦林(かみかわらばやし)村では,総戸数33戸(総人口295人)中,11戸が下人36人を抱え,そのうち譜代下人22人,年季奉公人8人であった。1665年(寛文5)の泉州大鳥郡踞尾(つくのお)村では,総戸数150戸(総人口724人)中,22戸が下人54人を抱え,そのうち譜代下人34人,年季奉公人18人であった。大坂周辺農村では,農産物の商品化と結びつく農業生産の発展に支えられて早期に年季奉公人が現れ,寛文~延宝期(1661-81)を経て本百姓経営が確立すると,譜代下人が急速に消滅して年季奉公人に席を譲る。
本百姓(小農)の自立とともに,本百姓が近世農業の基本的担当者となり,単婚小家族の家族労働を根幹とする本百姓経営(小農経営)が近世期農業の基本的経営形態となる。この本百姓経営の再生産条件に照応的な雇用関係として年季奉公人が出現する。本百姓の自立過程は,時代の全般的な動向としては,隷属的小農(被官,家持下人,隠居など)および譜代下人の小高持(下層の本百姓)への転化,あるいは水呑(みずのみ)への転化として進行し,これに並行して,かつての村落上層の農業経営は隷属的労働への依存から脱却し,本百姓の小家族が放出する年季奉公人を雇用して手作経営へと移行する。年季奉公人は,年貢負担や災害などによる本百姓経営の浮沈の過程で,本百姓経営の再生産を補完する役割を担っている。享保期の関東農村の事情を伝える《民間省要》は,〈夫(それ)百姓と云物渡世誠に浅ましき物にて,中々百姓にして百姓計(ばかり)をかせぎ,心易く渡世の相立つ物にてなし,年々大風大水旱魃の災難にかかり……時々心当のはづるる事のみ多き物なり,耕作の外にかせぎ無之ものは……御年貢時に至て,其価つぐなふべき様なし〉と述べている。このような事情のもとで本百姓の子女が年季奉公人として放出され,一定期間の後には本百姓経営に還流して本百姓経営を維持,存続させる。
年季奉公人が一般化する時期には,経済発展の弱い地方では居消奉公人(東北地方),捨り(すてり)・取切(とりきり)(九州地方)などと呼ばれる雇用関係が現れる。これは質券奉公人の性格変化にもとづく雇用関係であり,事実上の譜代下人ともいうべき本来の質券奉公とは性格が異なる。これは前貸金の元利を一定年限までの労働で返済する奉公契約であり,前貸しによる年季奉公人に近似している。居消奉公人にしろ前貸しによる年季奉公人にしろ,雇用関係の成立する直接的契機は被雇用者側の本百姓経営の経済的窮迫にあり,そのため年季も長く,労働条件も劣悪な傾向をもつ。時代を下るとともに年季奉公は前貸し形式から給金取りの奉公形式に変わり,年季も長年季から短年季に移行する。年季奉公人は一般的には雇用主の居宅に住み込み,年季中は〈仕着(しきせ)〉の支給を受け,主家の手作経営の農耕に従事し,同時に家事一般の雑事にもあたる。
近世後期の大坂周辺棉作農村では,短年季の年季奉公人と併存して日割奉公人が現れている。この雇用形態では,1戸を構える小農が1ヵ月中の一定日数を限って雇用される。自己経営をもつ経営主体が雇用関係に組み込まれるところに特徴があり,農産物の商品化による商品経済の拡大を基盤にして,農業における雇用関係が年季奉公人よりもさらに拡大している姿をみる。
近世後期には短期の季節雇や日雇が増し,特に農業生産の発達した摂・河・泉の畿内農村や農村工業の発達した地域,街道筋の要衝の地などでは,商品経済の農村への浸透にともなって農民層の分解が進行し,日雇の発生をみた。棉作農業の発展と結合して綿加工業の展開した泉州北部の村々では,綿業,交通労働,漁業,農業などで雇用される多数の日雇を生み出し,幕末期,1843年(天保14)の時点では全戸数の20~30%が無耕作の日雇人で占められていた。
近世における奉公人は譜代下人から年季奉公人への移行に始まり,年季奉公人が近世農村の基軸的な奉公人となる。幕末期には年季奉公人の性格も徐々に変化しつつあるが,なおその本質は維持されていたと考えられる。
執筆者:葉山 禎作
17世紀後半以降,鴻池や三井,住友といった豪商が台頭してくると,そこに数多くの奉公人が雇用されるようになった。1689年(元禄2)の大坂の全人口33万人のうち,下男下女は24%に達している。もちろん豪商の住む町々での奉公人の比重はもっと高く,1851年(嘉永4)の高麗橋一丁目の全人口992人のうち66%は奉公人である。この町では岩城枡屋が235人,三井越後屋が180人と豪商が多くの奉公人を抱えていたためであるが,借屋人でも半分近くが,1人か2人の奉公人を抱えていた。17世紀後半の豪商経営が台頭してきたころは,奉公人はいつ自立してとび出すかわからない,油断のならない存在である。つまり奉公人とはいえ,自前の小さな店をもつ機会がいつでもあり,いつライバルになるかもしれないような奉公人が多かった。だからこそ活気のあった寛文~元禄時代(1661-1704)から,やがて主従関係のもとに奉公人が規制される時へと移っていった。
18世紀に入り,豪商たちの経営は家憲や家訓をつぎつぎに制定し,奉公人制度を確立していった。すなわち主人を頂点とし,忠誠を誓う奉公人の存在を前提とし,昇進,給与,暖簾分けの制度が定められていったのである。店へ勤めるときは奉公人請状(うけじよう)を出し,身元保証と年季奉公であることなどが記されている。奉公人となることのできた者は主人の出身地など同郷の地縁的関係が多く,豪商の場合は比較的上層の農民の家から出た者が多かった。彼らは店へ12,13歳で奉公して,まず雑用,下働きの丁稚(でつち)となり,ついで平手代(手代)となる。あとは役職について組頭や支配人,後見役となっていく。この昇進は容易でなく,登り制度によって見込みのない者は故郷へ戻されてしまい,その淘汰はきわめて厳しいものであった。
奉公人の給与は,はじめは藪入りのときに支給される仕着とわずかな額の小遣いであった。やがて定額の小遣いが支給されるようになるが,もっとも注目すべきは,役付きとなると,利益金の一部が分配されるようになることである。もちろん店経営の最高責任者と組頭層とではその分配額に大きな差があったが,とにかく一所懸命働いてもうけた分の一定額が割り戻されるという仕組みであった。主人への忠誠心というのは,こうした利益金分配という背景があってのことである。そしてこの分配金は勤務中は店へ積み立てられ,それを預けているうちは利息付きで,退職時にまとめて支給されたのである。40歳すぎたころの暖簾分けは,こうして蓄積された資金をもって実現することができた。
このように厳しい労働条件のもとで淘汰され,わずかな残された人だけが暖簾分けをしてもらい,自分の店をはじめてもつことができたのである。豪商経営などに家族主義的経営原理が貫かれ,家業に精励する奉公人が18世紀以降に数多くつくり出されるようになったが,やがて江戸幕府なども主人に忠誠を誓い,家業の存続につとめる奉公人は,社会体制を安定させるためにも望ましい者として表彰の対象とするようになった。しかし幕末期になると,奉公人1人,2人を抱える小商人の経営が市場構造の変動に対応して急速に成長してくる反面,これまで家族主義的な経営原理の典型とみられていた豪商経営のなかには,経営の停滞を反映して奉公人たちの間に動揺が生まれていった。もっとも明治期に入って,豪商は政商なり財閥となっていく過程で,ふたたび家族主義的な経営を復活していった。
執筆者:松本 四郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
主人に仕える者。元来は朝廷に仕える者の意であったが、江戸時代には武家や商家、職人、農家などでも用いられるようになった。なお鎌倉時代には、本領安堵(あんど)・所領給付などを中心とする将軍の御恩に対し、家臣の負う軍事的・経済的義務を奉公とよび、これら家臣を奉公人ともいった。
武家奉公人とは一般武家のもとに仕える若党(わかとう)、徒(かち)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)、陸尺(ろくしゃく)などのことである。江戸中期には、江戸では武家の譜代(ふだい)奉公人は消滅し出替(でがわり)奉公人となる現象がみられる。それも渡り用人が出現するなど、中級の武家奉公人にまで及んでいった。出替奉公人の出現による譜代奉公人の消滅は武家下部構造の変質を意味する。それは主従関係にあっては封建的忠誠心の欠如となって現れてくる。出替武家奉公人の身分は、奉公以前は町人であるので帯刀することはない。しかし武家奉公中は武士に準じた身分として扱われ、帯刀が許される。それは身分の転換ではなくあくまで一時的な扱いであるが、武家として雇傭(こよう)されている期間中に盗みを働くと、町人では入墨(いれずみ)・敲(たたき)にすぎないのに、武家同様の扱いを受けるため死罪となる。町の商工業者の丁稚(でっち)、小僧(やがて手代(てだい)、番頭(ばんとう)となる)や徒弟(弟子)などの奉公人は別家や親戚(しんせき)などの縁者や知己の紹介によることが多く、一定の年季を勤めて独立するが身分的従属関係が強い。これに対して下男、下女などの短期の出替奉公人は通常口入(くちいれ)屋を介して雇傭され、それも比較的短期間の雇傭であり、しかも賃金による雇傭関係といった面が強いのが特色である。なお上方(かみがた)に本店がある越後(えちご)屋や白木屋などの江戸店(えどだな)では男の奉公人ばかりで女奉公人はいっさい置かず、台所の仕事も台所衆や男衆とよばれた男子たちが勤めた。
農家では(1)身分的にまったく主家に従属し給金支給のない奉公関係と、(2)身分的制約も緩く給金支給のある雇傭関係的奉公とに大別される。(1)には主家に代々隷属する終生的下人の譜代奉公と、質奉公、養子奉公とがある。
[南 和男]
質奉公は質券奉公ともいい、債務の担保に人間の労働力を質入れしたもので、債務を弁済するまで奉公に従う。これは人身の永代売買禁止後に一般化したもので、身売奉公の形式変化から発生したものであるため、契約の文言はきわめて従属的であり、違反への制裁も主従的・隷属的文言を用いている。質奉公には、前借の利子を払うものと払わないものとがある。後者は前借の利子分だけ労賃が高くなったわけで、これがさらに高くなると居消質奉公(いげししちほうこう)となる。これは質奉公労働によって前借金の一部または全部を相殺していくもので、質奉公から変化し、年季奉公へと移行する先駆的形態である。その契約期間は3~5年が普通である。
[南 和男]
年季奉公は出替奉公、一季(いっき)奉公ともいい、1年を単位に奉公契約をするものである。譜代奉公や質奉公のような長期にわたる奉公と区別するため使用した。1年を単位とした奉公であるから、1年以上継続するときは契約の切れたとき改めて契約を更新する慣習があった。江戸の出替日限は1615年(元和1)ごろは毎年2月で、旗本、御家人の武家奉公人のみを対象としていたが、1668年(寛文8)より3月5日とし、翌年には大名が江戸で雇傭する武家奉公人や、江戸町方の奉公人にも及ぼした。これは「かぶきもの」や出居(でい)衆などの浮浪人化を取り締まるためであった。さらに1672年には全国に及ぼしてその統一を図ったが、各藩の出替日はかならずしも一定していない。その雇傭期間も実質的には6か月、3か月、1か月というように日雇的なものが増加する傾向が生じた。江戸や大坂のような都市では奉公人を周旋する「けいあん」(口入、人宿(ひとやど)などとも)が多数存在しており、江戸では彼らの不正悪質な行為は正徳(しょうとく)・享保(きょうほう)(1711~1736)のころから社会問題化していた。江戸で武家奉公人として雇傭されるためには身元や、キリシタンでないこと、また逃亡しないこと(逃亡したときは前渡金の弁償)などの保証をする証書(奉公人請状(うけじょう))を必要とした。しかし適当な身元保証人のないときは人宿に金銭(判賃)を支払うと簡単に保証人となった。このように中期以降になると請人制は形式化し、請人の債務履行義務が軽減化され、この種の出入りは漸次私法的関係に赴く過程を示すのである。
[南 和男]
『林玲子著『江戸店犯科帳』(1980・吉川弘文館)』▽『南和男著『江戸の社会構造』(1969・塙書房)』
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本来,武士の主従関係における従者をさすが,中世末~近世初頭では士分に取り立てられた武家奉公人をさす。江戸時代になると,主家の家業や家事に従事して労働を提供する者の総称となった。主人の身分や職業に応じて,若党・中間などの武家奉公人,農村奉公人,丁稚(でっち)・手代などの商家奉公人,職人の弟子・徒弟などの種別があり,奉公契約の形態によって譜代奉公,質奉公,年季奉公や日用奉公などの区別がある。17世紀に幕府は人身売買の禁止や年季制限を令したが,農村ではいぜん譜代・質奉公や長年季の奉公が多くみられた。江戸中期以降,農業の発達や商品生産の展開などから短年季の奉公が一般的となる。武家奉公では初期から1季や半季の出替(でがわり)奉公人が都市域を中心に広範に存在していた。なお商家や職人の奉公人は,技術の習得や商売の見習いを目的とするため長年季の奉公が多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…生みのオヤが有力な家の家長やその妻やアトトリにオヤとなってもらって,無力な家に生まれた子がそのコ(子分)となる社会的事実は,ムラやマチの慣習や儀礼におけるオヤコナリ(親子成り)の仕方に見いだされた。家の内では家長と家の成員の関係としてのオヤコに,子方・子分・子供衆(商家の住込み子飼いの丁稚(でつち))もまた子と同様にコとして含まれる点に注目すべきで,家の拡大展開による本家・分家(親族分家と非親族分家=奉公人分家,別家ともいう)の関係においてもこの原則はあった。本家・分家間の同族の関係は,明治の民法以来,法律上本家・分家とされたものとは違って,親子や養親・養子,また嫁・婿の範囲に限定されず,同族関係とオヤコ関係(親分・子分関係)が合致していたのが原型であり,のちに両者が分化された。…
… なお中世の農民や職人に関しても,定期的な休日の制度は知られていない。番【福田 豊彦】
[近世農民の労働と休日]
江戸時代の上層農民には譜第下人,質奉公人,年季奉公人,季節傭と,性質の異なる下男下女を使う者が少なくなかった。この種の雇人を使う心構えは農書の類の関心事でもあり,次々と休みなく使うために必要な農具類を用意し,田畑への行き来にも,必ず物を運ばせる心構えが,主人には必要とされた。…
…この語は文芸作品などにしばしば登場するが,各地の農村における実際の使用例はあまり知られておらず,意味は必ずしも明確ではない。農業労働に従事する雇人を大別すると,主家に住み込む奉公人と自分の家から通う日雇になるが,作男はばくぜんと両者を含む言葉とするのが通例である。ただ地方によっては,特定の家に出入りしてその家の農作業や雑事に従事し,なにかにつけてその家から物質的給付をうけるような,主従関係的な人物を作男という所もある。…
…侍はふつう百姓とは別のもの,武士の同義語と考えられがちであるが,〈人夫のことは百姓役なり,百姓の儀においては侍・凡下をいわず,その地につきての役所なり〉(1473年,《大乗院寺社雑事記》)とされたように,村落において領主の耕地をもつかぎり,侍も凡下もともに領主からは百姓とみなされた。 戦国農村の侍には,〈奉公人,物作らず〉(〈河毛文書〉)と〈主をももたず,田畠作らざる侍〉(〈平野荘郷記〉),〈奉公をも仕らず,田畠をもつくらざるもの〉(〈浅野家文書〉)というように,領主を主人にもち軍役をつとめる侍と,主人をもたず軍役をつとめない侍とがあり,村落のなかでは自分では田畠を作らず,とくに前者は夫役などの負担免除の特権を与えられている場合が多かった。一般百姓も〈中間(ちゆうげん)〉から〈かせ者〉へというようなコースで主もちの侍身分に取り立てられるのが名誉とみなされ,戦功の恩賞とされることがあった(〈児野文書〉)。…
…幕法をうけた諸藩でも,捨子の養育を命じ,子を捨てた者の処罰を強化した例が多い。処罰例から知られる捨子の実態は,未婚の奉公人や都市細民の出生児のほか,農村でも例が少なくないが,直接生児を遺棄する例より,若干の養育料をそえて里子に出す困窮者に対し,養育料をとって子を捨てる者が,獄門などの重刑に処せられた例が目につく。この種の営利捨子者の厳罰以外には,捨子発見地の住民に養育の義務を負わせるのが,多くの捨子禁令の実態であった。…
…侍(殿原(とのばら)・若党・かせ者など)が名字をもつのにたいして,中間は〈名字なき者〉とされた(《小早川家文書》)。戦国期の農村では,〈ちうげんならばかせものになし,百姓ならばちうげんになす〉(《児野文書》)というように,農民が中間からかせ者へと侍身分に取り立てられるのが名誉・恩賞とされ,〈諸奉公人,侍のことは申すに及ばず,中間・小者・あらし子に至るまで〉(《近江水口加藤家文書》)というように,武家の奉公人には侍,中間,小者,荒子の四つの身分序列が一般的に成立していた。なお《日葡辞書》は中間を馬丁とし,《雑兵物語》は〈弓鉄砲の足軽衆や長柄供廻りの中間衆〉と足軽・中間を区別している。…
…一方,通年契約の年切奉公が支配的な農村では,12月初旬前後の一日を出替りとしたところが多い。契約更新の場合,雇人は出替りののち実家に帰休し奉公先には正月過ぎに戻るが,これは都市奉公人のやぶ入りに相当するものであった。【岩本 通弥】。…
…ほかに寺社奉行および勘定奉行配下の蔵奉行,油漆(あぶらうるし)奉行,林奉行の属吏も手代と称した。【村上 直】(2)商家奉公人で丁稚(でつち)より上位の者をいう。江戸時代の商家の奉公人は10~13歳で丁稚,子供として雇用されたが,丁稚の期間は無給で見習奉公人であった。…
…人市ともいい季節奉公人の雇用を仲介するための市。この市の起源は,季節奉公人の出現と出稼ぎ慣行の盛行を背景としておりそう古いものではない。…
…1591年(天正19)に豊臣秀吉が全国に発布した3ヵ条の法令。侍,中間(ちゆうげん),小者などの武家奉公人が百姓,町人になること,百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに従事すること,もとの主人から逃亡した奉公人を他の武士が召し抱えることなどを禁止し,違反者は〈成敗(死刑)〉に処するとしている。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をひかえて,武家奉公人と年貢の確保を目的としたものと思われる。…
※「奉公人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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