稲積村(読み)いなづみむら

日本歴史地名大系 「稲積村」の解説

稲積村
いなづみむら

[現在地名]氷見市稲積・栄町さかえまち間島ましま

余川よかわ川の下流域、氷見町の北西に位置し、東は間島新ましましん村、西は下余川村。村のほぼ中央を西から東に余川川が流れる。「本化別頭仏祖統記」によれば、稲積村にいて日蓮宗蓮乗れんじよう寺を創建した日暹は嘉暦二年(一三二七)に没したという。北の指崎さつさき村との境にそびえる標高九八・九メートルのじようが峰は三角形の山で、三角山みすまやま城にあたるとされる。観応三年(一三五二)六月九日能登守護吉見氏頼勢は「木谷・師子頭・三角山等之敵陣」に攻め寄せ、同月一五日再び三角山城に攻め寄せ、この戦いで討取られた白井弥八・渡部源八の首は「稲積河鰭之処」に掛けられている(同年九月日「得田素章代章房軍忠状」遺編類纂所収得田文書)


稲積村
いなづみむら

[現在地名]長野市大字稲田いなだ

吉田よしだ村の北。東は金箱かねばこ村・富竹とみたけ村とあさ川で境し、西は檀田まゆみだ村と、北は徳間とくま村と家並が接している。

天正七年(一五七九)正月の諏訪社下社の下諏訪春宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に、「若槻庄之内(中略)稲積之郷上下」とあるように、中世は若月わかつき庄に属し、早くから上下二郷からなっていた。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に初めて村名で記され、一は「弐百弐拾八石六升八合 稲積村」とあり、他は「九拾九石壱斗三升四合 下稲積村」とある。


稲積村
いなづみむら

[現在地名]小杉町稲積

大江おおごう村の北西、下条げじよう川左岸に位置する。氷見ひみ郡の稲積村(現氷見市)と区別するため東稲積村とも称した(明治一〇年代にはこれが正称となる)正保郷帳によると高一千一九八石余、田方七四町九反余・畑方四町九反余。寛文三年(一六六三)の役家数二二、うち肝煎家一(「川西家高付帳」川合家文書)。同一〇年の村御印では草高一千二六七石・免四ツ二歩、小物成は川役六匁(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の百姓家数三九・頭振家数三九、そのほか諏訪大明神・禅宗永久えいきゆう寺などがある(「高免等書上帳」折橋家文書)


稲積村
いなづみむら

[現在地名]大洲市稲積

天保郷帳には桑野くわの村と記載されている。ひじ川の支流伴造ばんぞう川の上流地域、鳥坂とさか(四六五メートル)によって現東宇和郡宇和うわ町に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「桑野村 茅山有」とある。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」によれば、米・大豆・薪の土産がある。「寛政元年御巡見御案内ニ付手鑑」(一七八九)には、家数五一、人数一七三、物成米一一六・六石、物成豆四四・二石、免八ツ三分三厘とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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