氷見(読み)ヒミ

デジタル大辞泉 「氷見」の意味・読み・例文・類語

ひみ【氷見】

富山県北西部の市。富山湾に面し、漁業が盛ん。中部にある十二町潟じゅうにちょうがた万葉集に詠まれた布勢水海ふせのみずうみ)のオニバス天然記念物。人口5.2万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「氷見」の意味・読み・例文・類語

ひみ【氷見】

  1. [ 一 ] 富山県北西部の地名。能登半島の基部にあり、富山湾に面する。古来、漁業が盛んで、灘浦と呼ばれる岩石海岸のブリ定置網漁業は有名。オニバスのある十二町潟は古く布勢湖(ふせのうみ)と呼ばれ、その周辺には万葉の故地が多い。国指定史跡の氷見朝日貝塚大境洞窟住居跡がある。昭和二七年(一九五二)市制。
  2. [ 二 ] 富山県の北西部にあった郡。中世末、射水(いみず)郡から分立されたが、近世初期に廃されて射水郡に復した。明治二九年(一八九六)再び射水郡から分かれたが、昭和一七年(一九四二)以降、氷見・高岡市に順次編入され、同二九年消滅。

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日本歴史地名大系 「氷見」の解説

氷見
ひみ

氷見地方は「万葉集」の重要な舞台であったが、氷見という地名が「万葉集」にみえるのは、大伴家持、天平一九年(七四七)九月二六日作の鷹放逸の長歌(巻一七)に「都奈之取る比美の江過ぎて」と歌われた一首のみである。長歌の道行き的記載からみて、布勢水海ふせのみずうみが海に注ぐ辺りの水路か、または水路に接した河口の湊とすべきであろう。都奈之つなしコノシロの古名であるが、あるいはコノシロ・イワシなどを含めて青魚の総称だったのでもあろうか。氷見は現代に至るまで漁業の盛んな土地であるから、魚をとることが枕詞的に使用されていることは興味深い。「平家物語」巻七(倶梨迦羅落)によれば、寿永二年(一一八三)五月一二日、前日の倶梨迦羅くりから谷の戦で勝利を得た木曾義仲は、今井十郎行家の志保しお山の戦を支援するため「ひゞの湊」を渡って加勢をしている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「氷見」の意味・わかりやすい解説

氷見(市)
ひみ

富山県北西部にある市。能登(のと)半島基部に位置し富山湾に面す。1952年(昭和27)氷見町と余川(よかわ)、碁石(ごいし)、八代(やしろ)の3村が合併して市制施行。1953年窪(くぼ)、宮田、上庄(かみしょう)、熊無(くまなし)の4村、1954年神代(こうじろ)、仏生寺(ぶっしょうじ)、布勢(ふせ)、十二町(じゅうにちょう)、速川(はやかわ)、久目(くめ)、阿尾(あお)、藪田(やぶた)、宇波(うなみ)、女良(めら)の10村を編入し旧氷見郡全域が市域となった。JR氷見線と国道160号、415号が通じる。能越自動車道が通り、4インターチェンジがある。第三紀層の丘陵性山地が富山湾に向かって緩斜し、「胡桃(くるみ)の大地すべり」で知られる慢性的な地すべり地帯である。この山地を刻んで阿尾川、上庄川、余川川、仏生寺川などが東流して富山湾に注いでいる。海岸は氷見市街地を中心にして南部は砂丘地帯、北部の灘浦(なだうら)は上庄川などの河口を除いて断崖(だんがい)をなしている。仏生寺川下流域はかつては布勢の海とよばれる大きな潟湖(せきこ)であったが、近世に干拓され、わずかに十二町潟(がた)が残り、周辺は水郷地帯となっている。富山湾は大陸棚が比較的発達し、ブリなどの定置網漁業が盛んで、中心の氷見は古くからの漁村、また市場町であった。周辺の農山村では江戸時代から熊無の箕(み)づくりや竹細工、十二町や藪田の藁(わら)工品、阿尾・藪田・女良の鏡研ぎなどの副業があり、小間物行商や大工の出稼ぎも多かった。産業は漁業、水産加工業、農業が主体で、窪にはコマツ小松製作所)の工場がある。沿岸部は能登半島国定公園に属し、朝日山公園がある。国の史跡に縄文期の朝日貝塚、大境洞窟(おおざかいどうくつ)住居跡、柳田布尾山古墳、国の天然記念物に十二町潟オニバス発生地、飯久保の瓢箪石(いくぼのひょうたんいし)などがある。朝日山東麓(とうろく)の上日寺(じょうにちじ)は例祭のごんごん祭りで知られる。また境内の巨木のイチョウ(上日寺のイチョウ)は国指定天然記念物。面積230.54平方キロメートル、人口4万3950(2020)。

[深井三郎]

『『氷見市史』(1963・氷見市)』『『氷見市史』全10巻・別巻1(1998~2007・氷見市)』



氷見
ひみ

愛媛県中東部、西条(さいじょう)市の一地区。旧氷見町。禎瑞(ていずい)新田、恵美須(えびす)新田など近世に開発された水田が多い。四国八十八か所の第63番札所吉祥(きちじょう)寺がある。国道11号が通じ、JR予讃線伊予氷見駅がある。

[編集部]

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改訂新版 世界大百科事典 「氷見」の意味・わかりやすい解説

氷見[市] (ひみ)

富山県北西部の市。1952年市制。人口5万1726(2010)。能登半島の基部の東半分を占め,東は富山湾に臨み,北と西は石動(いするぎ)山,宝達(ほうだつ)山を主峰とする低い山地をはさんで石川県に接する。仏生寺(ぶつしようじ)川,上庄(かみのしよう)川,余川川,阿尾川などが東流し,下流に肥沃な沖積平野を形成している。中心の氷見は古くから漁業が盛んで,漁港を中心に町が形成されていった。現在の漁港は市街地の北部上庄川河口にあるが,もとは市街地中央部の湊川河口にあり,近世から明治にかけて湊川の中の橋周辺に魚市場,魚問屋,小売商が集中し,町の中心としての活況を呈した。しかし1868年(明治1)の新窪川の開削により湊川の水量が減じて河港としての機能が低下したため,1923年から28年にかけて現在の氷見港がつくられた。内陸の山間部は耕地が少なく,江戸時代の農民は副業として青銅製の鏡をみがく鏡磨(かがみとぎ)や小間物の行商人として各地に出かけていた。現在も出稼ぎが多い。海岸は能登半島国定公園に指定された景勝の地であり,朝日貝塚,境洞窟など国指定の史跡がある。南部の十二町潟はオニバスの発生地(天)として知られる。JR氷見線,国道160号線が通じる。
執筆者:

《万葉集》に〈比美之江〉と記される。越中と能登を結ぶ交通の要地で,近世には宿場町として駅馬17疋がおかれ,町奉行が支配した。町の構成は中央に流れる湊川を境に北町,南町に区分されていたが,元禄(1688-1704)ころ前者は湊,本川,中,北新の4町に,後者は南上,南中,南下の3町に分かれ,この7町をもって本町を形成し,他を散町(ちりまち)と呼び区分した。寛文(1661-73)のころ氷見地方の年貢収納蔵,給人蔵宿がおかれ,米の集散地となり港町としても栄えた。漁業も盛んで地先に敷設された定置網は1637年(寛永14)以来,本町が経営し鬮網という特殊な慣行があった。戸数は1690年に1243戸,1836年(天保7)に1933戸であった。1896年に氷見郡役所がおかれた。明治末年に日高式大敷網の敷設に成功したことは有名。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「氷見」の意味・わかりやすい解説

氷見[市]【ひみ】

富山県北西端,能登半島の基部を占める市。1952年市制。中心の氷見地区は富山湾に臨み,漁港として発達,氷見線が通じる。ブリ定置網漁,イワシ漁が特に盛ん。内陸部は耕地が少なく,江戸時代から小間物行商などの副業が発達し,現在も出稼ぎが多い。十二町潟オニバス発生地(天然記念物),朝日貝塚(史跡),大境洞窟(史跡)があり,海岸の景勝地は能登半島国定公園に属する。230.56km2。5万1726人(2010)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「氷見」の意味・わかりやすい解説

氷見
ひみ

室町時代の面打。日氷宗忠ともいう。越中,氷見の出身。山姥,痩男,景清など沈痛な表情の面にすぐれた手腕を示した。宝生家の姥面に文亀4 (1504) 年の銘文があり,彼の活躍の時代がほぼ推定できる。

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デジタル大辞泉プラス 「氷見」の解説

氷見

富山県氷見(ひみ)市にある道の駅。国道415号に沿う。

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世界大百科事典(旧版)内の氷見の言及

【越中国】より

…以後廃藩に至るまで越中は加賀藩富山藩の支配下にあった。中世から続いている近世の町は,守護所のあった放生津,戦国期に城郭のあった富山・魚津,同期に港町であった氷見(ひみ),真宗瑞泉寺の門前町であった井波がある。近世には富山は城下町,魚津,放生津,氷見は港町,井波は門前町として栄えた。…

※「氷見」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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