日本歴史地名大系 「窪屋郡」の解説
窪屋郡
くぼやぐん
- 岡山県:備中国
- 窪屋郡
「和名抄」東急本(国郡部)・刊本に「久保也」の訓がある。諸本とも
弥生後期の墳丘墓としては
〔古代〕
「窪屋」の文献上の初見は「日本書紀」雄略天皇元年三月是月条に、雄略の妃の一人の稚媛の出身について、書紀本文では吉備上道臣の娘と記し、その分注に「一本に云はく、吉備窪屋臣女といふ」と記されているものだが、窪屋臣に関しては他に史料はない。天平一一年備中国大税負死亡人帳には、郡内の一五名が計一千五九束の大税を借りて死亡したことを記している。同史料にみえる氏名は、下道朝臣一・下道臣一・語直一・軽部首二・軽部二・美和首一・神首一・神人部一・白髪部首一・白髪部二・物部三・私部二・刑部一・出雲部一・家部一・爾麻部二・氷人一の一七氏二四名であるが、その複雑な氏族構成は当郡域をも含む古代吉備の歴史を暗示するといえよう。下道朝臣・下道臣は古代吉備の代表的支配氏族の一つで、八世紀代の本拠は当郡西隣の下道郡にあったとみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報