山手村(読み)やまてむら

日本歴史地名大系 「山手村」の解説

山手村
やまてむら

[現在地名]吉田町山手

常友つねとも村の南西に位置し、南から東にかけての村境を可愛えの川が流れる。「芸藩通志」に「広十六町、袤十町、西南山連り、村中にも阜岡あり、東界川を隔て飛郷一所あり」とあり、耕地は多い村であった。古くは東北の吉田村と、西方の中馬ちゆうま村の間にあった細長い村で、村名は地形によるものと考えられるが、のち下山手の区域が分れて四村になり、近世の山手村が確立したものと思われる。天正一一年(一五八三)一〇月二八日付の粟屋元信宛の宛行状(「閥閲録」所収粟屋孫次郎家文書)に「山手之内ひすハ末長」とあり、飛諏訪ひすわはのちの常友村のうちであることからもわかる。


山手村
やまてむら

[現在地名]赤坂町山手

正満寺しようまんじ村より北へ八町の山上の村で、倉敷往来に沿う。中世には軽部かるべ庄内山手村として鹿王ろくおう(現京都市右京区)に伝領された。相伝系図によると後鳥羽院乳母の卿二品から、修明門女院・入道尊快親王・澄覚親王・実雲僧正・実承僧正・承鎮親王・玄鎮律師・三条局へ伝領され、貞治五年(一三六六)八月二七日に局の娘で洞院公賢娘の守清庵主真当から鹿王院への寄進が安堵されている(「後光厳天皇綸旨」鹿王院文書)


山手村
やまてそん

面積:一〇・二六平方キロ

総社平野の南端に位置。北の総社市、南の倉敷市に挟まれ、東は倉敷市のほか一部は岡山市、西は清音きよね村と接する。南部は山がちで、西からふく山、和霊われい山、狸岩たぬきいわ山、龍王りゆうおう山、仕手倉してくら山などの山が連なる。県道清音―真金まかね線が北部を横断し、倉敷市から御津みつ加茂川かもがわ町へ抜ける国道四二九号がほぼ中央部を縦断する。村名の山手は「古事記」の仁徳天皇吉備行幸の記事にある「山方」が転じたものと伝える。当地方は古くから開発され、豊富な文化財と古墳群があり、昭和四五年(一九七〇)設立された吉備路風土記の丘県立自然公園に村域の半分が入り、うち北東部の総社市と境を接する部分は昭和四七年その特別地域に指定された。


山手村
やまてむら

[現在地名]河原町山手

八東はつとう川と支流私都きさいち川の合流点南岸付近に位置し、西は今在家いまざいけ村。支村として加賀瀬かがせがある(因幡志)。拝領高四九九石余、本免四ツ八分。倉吉荒尾分家の荒尾氏および松田氏・田淵氏・野間氏・伴氏の給地があった(給人所付帳)。家数は宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内懐中鑑(西郷小学校蔵)で三二軒、「因幡志」では三〇軒。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高五九四石余、竈数三九(うち浪人医師一)。藪役一八匁一分を課されていた(藩史)。寛保元年(一七四一)鉄砲打および鳥猟を禁止する杭が立てられ、「在方御定」同年九月二九日条に「片山之杭より山手之杭迄三十丁、同郡山手村之杭」と記されるが、のち廃止となる(藩史)


山手村
やまてむら

[現在地名]福山市山手町

郷分ごうぶん村の西に位置し、中世以降の山陽道が通る。古代には津宇つう(和名抄)に含まれていたとされる。中世この辺りは津本郷つほんごうとよばれ(水呑町史)、室町時代杉原氏が銀山ぎんざん城を築いたといわれる。銀山城跡の東南山麓には杉原氏の菩提寺曹洞宗三宝さんぽう寺があり、旗谷はつたんだの地名が残る。また西側山麓には浜矢場はまやばの地名を残す。三宝寺の西の方を太閤屋敷たいこうやしきというのは、朝鮮半島出兵の時豊臣秀吉が宿陣したとされるためで、元和(一六一五―二四)頃までは築地があったがいつしか崩れ、残った草社一宇を豊国大明神として祀っていたものを江戸時代豊国をはばかって荒神と称したといわれる(備陽六郡志)


山手村
やまてむら

[現在地名]日田市小山おやま

内河野うちがの川の上流域に立地する。慶長一三年(一六〇八)当村一〇三石余が筑後柳川藩主田中隼人室領になったとされる(「豊西説話」「日田記」など)正保郷帳に村名がみえ、田高五七石余・畑高四五石余で、石井いしい郷に属し、日損所と記す。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免二ツ四厘で、永荒四三石余。元禄郷帳では当村にあたる山手村と上野うえの村枝郷の山手村に分けて記載があり、「豊後国志」では上山手・下山手とある。


山手村
やまてむら

[現在地名]竹田市飛田川ひだがわ

稲葉いなば川下流南岸にあり、東はおか城下。正保郷帳では飛田郷に属し、田方五〇石余・畑方二二石余。弘化物成帳では君ヶ園組のうち、村位は下、免九ツ六分、田四三石余(四町五反余)・畑五石余(一町二反余)・屋敷九斗余(五畝余)で、開田はほとんどなく、開畑一斗余(二反余)がある。


山手村
やまてむら

[現在地名]十津川村大字山天やまてん

神納かんの川流域、内野うちの村の対岸傾斜地に立地。十津川郷のうち。寛永郷帳に初めて村名がみえる。村高二四・三七石、幕府領。元禄郷帳では村高二一・四五石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆一〇本、檜角尺〆五本、椴栂松尺〆一三五本、煙草六〇貫目、楮二五貫目、椶櫚皮一千枚、割菜四八貫目、椎茸三貫目、蜂蜜一貫目とみえる。


山手村
やまてむら

[現在地名]邑久町山手

千町せんちよう平野の北、高砂たかさご(一三五・三メートル)の南麓寄りに位置し、農業の盛んな地域。寛永備前国絵図に山手村とみえ、高八三八石余。正保郷帳に枝村真徳しんどく村がみえる。「備陽記」では田畑七四町五反余、家数一二一・人数七八四。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、直高一千四四二石余で家老伊木氏の給地。反別は、田六二町四反余・畑一二町六反余、家数一五六・人数六三二、牛五〇、社方家二、宮四(社領七斗)、樋一二、石橋三・土橋一一、池七、沼船二二、古寺跡として真徳山明王みようおう寺が書上げられる。


山手村
やまてむら

[現在地名]古座川町山手

中崎なかざき村の西北川の西側に位置する。慶長検地高目録によると村高一五九石余、小物成二・〇七五石。古座組に属し、「続風土記」は家数三六、人数一三七、社寺太神宮と地福山延命えんめい(臨済宗妙心寺派)を記す。


山手村
やまてむら

[現在地名]作東町山手

吉野よしの川右岸に立地。対岸南は当村分郷の小野谷おのだに村。正保郷帳に村名がみえ、田二二六石余・畑六九石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高八八石余・開高八石余、村位は中。津山藩森氏断絶後は幕府領、延享二年(一七四五)因幡鳥取藩預、同四年常陸土浦藩領、寛政二年(一七九〇)幕府領(「美作国郷村支配記」など)


山手村
やまてむら

[現在地名]藤橋村山手

徳山とくやま村の北西、揖斐川右岸にある。永享三年(一四三一)六月一日の徳山常長渡状(徳山文書)に「やまて」とあり、当地の山銭五〇文などを縫殿助に譲り渡している。物成取覚(赤座文書)山出村とあり、寛永六年(一六二九)には定米一〇石余分を銀二一〇匁余で納めている。


山手村
やまてむら

[現在地名]十津川村大字山手

垣平かいだいら村の北に立地。十津川郷のうち。寛永郷帳では村高一五石、幕府領。元禄郷帳では村高八・一七五石。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆三〇本、檜角尺〆五本、楮六〇貫目、茶一〇〇貫目、炭三〇俵、煙草二四貫目、松脂一八貫目、割菜二四貫目、椶櫚皮一〇〇枚とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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