池田光政(読み)イケダミツマサ

デジタル大辞泉 「池田光政」の意味・読み・例文・類語

いけだ‐みつまさ【池田光政】

[1609~1682]備前岡山藩主。輝政の孫。藩政改革熊沢蕃山くまざわばんざんを登用。閑谷黌しずたにこうを創建。儒教を重んじ、新田開発殖産興業に努めた。

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精選版 日本国語大辞典 「池田光政」の意味・読み・例文・類語

いけだ‐みつまさ【池田光政】

  1. 江戸前期の備前岡山藩主。輝政の孫。熊沢蕃山を用い、諸制度を整え、農産業を開発し、学問の興隆をはかった。慶長一四~天和二年(一六〇九‐八二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「池田光政」の意味・わかりやすい解説

池田光政
いけだみつまさ
(1609―1682)

江戸初期の著名な外様(とざま)大名で岡山藩主。慶長(けいちょう)14年4月4日岡山城で生まれる。父は利隆(としたか)、母は榊原康政(さかきばらやすまさ)の次女鶴子(法号福照院)。幼名を幸隆(よしたか)といい、元服のとき将軍徳川家光の諱(いみな)の一字をもらって光政と改め、通称は新太郎、諡(おくりな)を芳烈公(ほうれつこう)といった。1603年(慶長8)以降池田家が岡山藩31万5000石を領知したが、光政は1616年(元和2)父の遺領を継いで姫路藩主(42万石)となり、翌1617年鳥取藩主(32万石)に転じ、1632年(寛永9)第3代岡山藩主となった。妻は本多忠刻(ただとき)と将軍秀忠(ひでただ)の娘千姫(せんひめ)との間に生まれた勝子(法号円盛院)である。光政は1672年(寛文12)に致仕(ちし)したが、天和(てんな)2年5月22日死去するまで藩政に関与したので、前後50年間、岡山藩政全般の確立を主導したわけである。素質は明敏で治国の要諦(ようたい)を学問に求め、家臣熊沢次郎八(くまざわじろはち)(蕃山(ばんざん))らについて儒学を修め、仁政の実現に努め質素倹約の「備前風(びぜんふう)」を奨励普及した。とくに民政に意を注ぎ、津田重二郎(永忠(ながただ))を起用して藩営新田の造成を図り、また、政治と学問・教育の一体化を図る見地から、士庶の教育に異常な熱意を注ぎ、藩校(城下)のほか郷学(ごうがく)(和気(わけ)郡)としての閑谷黌(しずたにこう)(遺構現存)を創建したことは特筆に値する。また、儒教的な合理主義の立場から、幕政に準じない独自の寺社政策を断行した。この啓蒙(けいもう)的な権威主義の「名君」は、和気郡和意(わい)谷の墓地に儒礼で埋葬され、閑谷学校内の芳烈祠(し)(現、閑谷神社)には、金銅坐像(ざぞう)が安置されている。

谷口澄夫]

『石坂善次郎編『池田光政公伝』上下(1932)』『谷口澄夫著『池田光政』(1961・吉川弘文館)』『藤井駿・水野恭一郎・谷口澄夫編著『池田光政日記』(1967・山陽図書出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「池田光政」の意味・わかりやすい解説

池田光政 (いけだみつまさ)
生没年:1609-82(慶長14-天和2)

江戸初期の外様大名。父は姫路城主利隆,母は榊原康政の次女鶴子で,利隆が岡山城主の弟忠継の代理で〈備前監国〉として岡山在城のとき,同城内で出生した。幼名を幸隆(よしたか)といい,元服のとき将軍徳川家光の諱(いみな)の1字をもらって光政と改めた。通称を新太郎,諡(おくりな)を芳烈公といい,官名は従四位下左近衛権少将。妻勝子は本多忠刻(ただとき)と千姫の娘。1616年(元和2)遺領42万石を継いだが,間もなく幼少の理由で因幡・伯耆両国32万石に減封されて鳥取に入城した。一方,岡山城主で光政の叔父にあたる池田忠雄は32年(寛永9)に死去し,子光仲が幼少のため幕命で因伯両国と備前との国替となり,同年光政は岡山に移封して岡山藩主となった。彼は72年(寛文12)に致仕した後も岡山城西の丸にあって,実に前後50年にわたって藩政の確立を主導した。賢母と師傅(しふ)に恵まれ,熊沢蕃山などの儒臣について儒学などの修業に努め,体得した仁政の理念を藩政に貫徹することをはかり,質素倹約の〈備前風〉を普及した。そのおもな業績をみよう。1654年(承応3)の大洪水で危機に直面したとき,地方(じかた)知行制度の大変革を断行して,家臣統制の強化と領民直接支配の促進をはかり,仁政理念に基づく農政を推進した。また,土木功者津田永忠を起用して新田開発,用・排水路の開削に努め,藩校閑谷(しずたに)学校を創設して士庶の教育に異常な情熱を注ぎ,儒教的合理主義の立場から独自の寺社政策を断行した。好学で世に〈名君新太郎少将〉とうたわれた。和気郡和意(わい)谷の墓地に儒法で埋葬され,閑谷学校には金銅座像がある。
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百科事典マイペディア 「池田光政」の意味・わかりやすい解説

池田光政【いけだみつまさ】

江戸前期の備前(びぜん)岡山藩主。通称は新太郎。1632年藩主に就き,1672年致仕後も岡山城西丸にあって藩政の確立を指導した。儒学に傾倒し,藩儒として熊沢蕃山を登用,仁政を行うことを目指し,質素倹約の〈備前風〉を広めた。藩校閑谷(しずたに)学校を設立,学問興隆に努める一方,土木巧者津田永忠(ながただ)を起用し治水事業や新田水利開発,産業振興等を進め名君と称された。
→関連項目中江藤樹花畠教場摩尼寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「池田光政」の意味・わかりやすい解説

池田光政
いけだみつまさ

[生]慶長14(1609).4.4. 岡山
[没]天和2(1682).5.22. 岡山
江戸時代初期の大名。備前岡山藩主。輝政の孫。利隆の嫡男。母は徳川秀忠の養女。初名は幸隆,のち将軍家光の偏諱 (へんき) を賜わって光政と改名。通称は新太郎。諡号は芳烈公。元和2 (1616) 年遺領播磨一国を継ぎ,翌3年因幡伯耆 32万石に転封され,鳥取城に拠った。同9年備前岡山を領し,侍従を経て従四位下左近衛権少将に叙任。寛文 12 (72) 年6月致仕。この間藩政をとり,名君とうたわれた。天災,飢饉にそなえて殖産興業に努め,治水,開墾,農事の改良を進め,同 11年には社倉法を設けた。また学問,文化の興隆にも意を注ぎ,熊沢蕃山を登用し,寛永 18 (1641) 年花畠教場,寛文 10 (70) 年閑谷 (しずたに) 学校,延宝2 (74) 年聖堂などを創建した。『池田光政日記』 (37~69) のほか編著に『三書要語解』,合著に『帝鑑評』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池田光政」の解説

池田光政 いけだ-みつまさ

1609-1682 江戸時代前期の大名。
慶長14年4月4日生まれ。池田利隆の長男。元和(げんな)2年播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩主池田家3代,翌年32万石に減ぜられて因幡(いなば)鳥取藩主。寛永9年従弟池田光仲との国替えにより備前岡山藩主池田家初代となる。31万5000石。熊沢蕃山(くまざわ-ばんざん)をまねいて仁政につとめ,質素倹約の「備前風」を奨励。津田永忠を登用して新田開発をすすめ,藩校花畠教場や郷学(ごうがく)閑谷(しずたに)学校を開設した。天和(てんな)2年5月22日死去。74歳。初名は幸隆(よしたか)。日記に「池田光政日記」。
【格言など】恩なければ威も無用のものなり,威なければ恩信も用に立たず(「池田光政日記」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「池田光政」の解説

池田光政
いけだみつまさ

1609.4.4~82.5.22

江戸前期の大名。備前国岡山藩主。父は播磨国姫路藩主池田利隆。はじめ幸隆。通称は新太郎。1616年(元和2)父が没し,翌年因幡国鳥取32万石に転封。32年(寛永9)備前国岡山31万石余に移り,以後50年にわたり岡山藩政の確立に尽くした。熊沢蕃山(ばんざん)・市浦毅斎(きさい)などに師事して儒学をきわめ,仁政理念を藩政の基本とする。農政では農民の育成に努めながら年貢増徴・小農民自立を促進。教育にも熱心で,熊沢蕃山を招ねいて重く用い,蕃山は花畠教場の中心となる。68年(寛文8)には庶民子弟のための手習所を各地に設置した(のち閑谷(しずたに)学校に統合)。自筆の「池田光政日記」が残る。

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旺文社日本史事典 三訂版 「池田光政」の解説

池田光政
いけだみつまさ

1609〜82
江戸前期の備前岡山藩主
輝政の孫。57年間にわたり藩政改革に尽力し,名君といわれた。儒教主義に基づき殖産興業・農業改良に努力,また士民の教育を推進し,熊沢蕃山を用い,花畠教場・閑谷 (しずたに) 学校を創設した。

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367日誕生日大事典 「池田光政」の解説

池田光政 (いけだみつまさ)

生年月日:1609年4月4日
江戸時代前期の大名
1682年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の池田光政の言及

【岡山藩】より

…03年岡山城主になった池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)以降,12代268年にわたって池田氏による領知が廃藩までつづいた。なお,忠継と弟忠雄2代のあと光仲のとき,鳥取在城の池田光政(光仲の従兄弟)との間に国替が行われ,1632年(寛永9)光政の岡山移封以後は,光政系の池田氏が襲封した。実質上の藩祖とみられる光政は稀有な好学の大名で,熊沢蕃山などを重用して儒教の仁政理念を徹底し,家臣団の統制や領民支配には権威的強権と剛直な独自性をもって藩政の基盤を作った。…

【鳥取[市]】より

鳥取砂丘湖山池,久松山と鳥取城跡(史),鳥取温泉,吉岡温泉などの観光地がある。【豊島 吉則】
[歴史]
 古代の因幡国邑美(おうみ)郡鳥取郷は,江戸時代に池田光政が河道を付け替える以前の旧袋川(湊川)より内側の,久松山麓を中心とする地域に位置したと推定され,中世には鳥執とも記された。中世において鳥取郷(荘)の存在を史料によって確認することはできず,鳥取が一つの所領単位を構成していたかどうかは明らかでない。…

【鳥取藩】より

…また千代川の堤防の増強を亀井氏と競争で行い,境界争いにも勝利するなどの治績が断片的に知られる。17年(元和3)姫路城主池田光政が幕府の転封政策により鳥取城主とされ,因幡・伯耆一円(大山領,安養寺領を除く)32万石を支配することになり,長吉の子長幸は備中国松山城主として移封された。播磨国42万石の家臣団を率いて入部した光政(9歳)は家老の補佐により,従来の6万石の規模の城郭・城下町の大拡張を行った。…

【伯耆国】より

…久米・河村2郡は幕府直轄領とされ,倉吉に派遣された代官山田直時(五郎兵衛)が支配した。1591年安房国から里見忠義が倉吉に配流され,その周辺の地約4000石を与えられたが,1617年(元和3)池田光政が鳥取城主として入封。因・伯両国32万石を領治したので,彼に預けられ,22年死没した。…

※「池田光政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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