日本大百科全書(ニッポニカ) 「立憲革命」の意味・わかりやすい解説
立憲革命
りっけんかくめい
1932年6月24日タイで勃発(ぼっぱつ)した無血革命。西欧留学経験をもつ壮年の文武官が革命を推進し、絶対君主制の王族政治を立憲君主制の議会政治へ変革した。ラーマ5世(在位1868~1910)の文明開化政策の下で、欧米文明を受容し、タイ近代化の担い手となった王族は、絶対君主をいただく中央集権体制を固め、王族政治の権力を確立した。しかし、1920年ごろから西欧へ留学する平民子弟が増加し、彼らのなかから、王族権力を打倒して議会政治を実現しようとする気運が高まった。革命運動の温床となった人民党は、27年パリで留学生有志が結成した組織であり、創設者のプリディが指導する文官群と、同志ピブンが指導する武官群は、さらにプラヤ・パホン大佐らの西欧留学経験者を含む陸海軍中堅幹部を軍事指導者として迎えた。革命当日98人の人民党革命団は王宮を占拠し、王族重臣を逮捕して人民党宣言を発表し、その3日後にはラーマ7世(在位1925~35)に、人民党が要求する暫定憲法(39条)と人民代表議会(推薦議員70人)を承認させた。32年12月には永久憲法(68条)が発布され、初代首相にイギリス留学経験者のマノーパコンが就任した。しかし元来、人民党は統一政策に欠ける革命集団だったので、派閥抗争がまもなく表面化した。翌33年3月にプリディ国務相が唱えた国家経済計画案をめぐり閣内対立が激化して、4月1日には議会が閉鎖された。
[市川健二郎]
第二革命
議会閉鎖に反対するパホン大佐派は1933年6月20日に第二革命を実行し、パホン政権を樹立した。パホンは同年10月に勤王党の反乱を鎮定し、12月には最初の総選挙を行って、民主政治への道を開いたが、王党派の勢力失墜に失望したラーマ7世は34年1月に渡英し、習年春に退位を宣言した。プリディが理想とした政党政治による民主主義は第二次世界大戦後まで実現せず、39年以後ピブン政権の国家主義政策の下に、タイは挙国戦時体制を強めた。
[市川健二郎]
『永積昭編『東南アジアの留学生と民族主義運動』(1981・厳南堂書店)』