人民党(沖縄)
じんみんとう
沖縄人民党ともいう。アメリカ統治下沖縄の最左翼政党。1947年(昭和22)7月20日、沖縄の「全勤労大衆の利害を代表」する党として浦崎康華(うらさきこうか)委員長のもとに結成された。中心となったのは第二次世界大戦前の共産主義者であったが、自由主義者などさまざまな思想的立場の人々を含む統一戦線的大衆政党であった。当初、「自主沖縄の再建」という独立論ともとれる綱領を掲げていたが、51年に「日本復帰」を打ち出し、祖国復帰の実現、平和擁護などを掲げて戦闘的な活動を展開した。幹部の逮捕・投獄、公職からの追放など、アメリカ軍の激しい圧迫攻撃を受けながら、粘り強い組織活動を進めた。創立以来の指導者、瀬長亀次郎(せながかめじろう)は沖縄革新の象徴的存在となった。復帰後の1973年10月31日、日本共産党に合流して同党の沖縄県委員会となり、瀬長委員長は共産党の副委員長となった(1990年引退)。
[藤井 正・五十嵐仁]
『沖縄人民党史編集刊行委員会編・刊『沖縄人民党の歴史』(1985)』
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人民党[インド]
じんみんとう[インド]
Peoples Party of India; Janata Party
ジャナタ党と通称される。インドの政党。インド無抵抗運動の指導者ジャヤプラカシェ・ナラヤンと野党国民会議派の長老モラルジ・デサイにより,1977年1月,野党国民会議派,ジャンサン党,BLD (全インド人民党) ,社会党の野党4党で結成された。同年3月の総選挙ではガンジー政権打倒を目指し,統一候補を立てることを決定した。デサイを議長とする全国執行部は政治犯即時釈放,放送,テレビの野党への開放,非合法政党の復権を決議。3月の総選挙では 542議席中 270議席を獲得,同党支持の無所属1人を加え,議席の半数を確保した。人民党を構成する4党は 77年5月1日合併を正式決定し,民主国民会議派も同年5月1日の全国大会で人民党との正式合併を決定した。しかし,政権担当後みるべき治績をあげることもできず,また寄合い世帯で内部対立を続けたため,79年8月,ついに議会解散に追込まれた。そして,この解散を受けた 80年1月の総選挙では改選 525議席中の 32議席という大敗を喫し,政権をガンジーの国民会議派に奪われるにいたった。さらに,80年4月ラル・クリシュナ・アドバニに率いられたジャンサン党系が離党し,インド人民党 (BJP) を結成。残された人民党の一部は 88年に人民戦線,ロク・ダルを結集してジャナタ・ダルを結成,人民党は2党に分裂した。
人民党
じんみんとう
People's Party; Populist Party
通称ポピュリスト党。 1891年アメリカで結成された農民政党。 87~90年にアメリカでは西部ブームが去り,農産物価格の下落などにより経済不況が始った。このような状況のなかで農民は政治活動を通して救済を求めるようになり,西部と南部に勢力を有していた農民の政治組織である「農民同盟」の指導者たちは,91年第3政党として人民党を結成。彼らは銀貨の無制限鋳造による流通貨幣の増大,累進所得税,鉄道の公有,上院議員の直接選挙など農民が商工業者と経済的均衡を享受することができるような政策を要求した。 92年アイオワの J.ウィーバーを大統領候補に指名,100万票以上の投票を得たが敗北。他方3人の州知事,数人の連邦議会議員,多数の地方議員を同党から出すことに成功した。 96年の選挙では民主党の W.J.ブライアンを推したが,ブライアンが敗北したことから党は分裂,やがて消滅した。彼らの要求のあるものは,のちの革新党に引継がれた。
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人民党
じんみんとう
Populist Party
1890年代にアメリカで活躍した第三政党
1873年の恐慌以後の農民運動から発展し,92年中西部・南部の農民が主体となって結成した。交通・通信機関の国有化,累進所得税,労働時間の短縮,特に銀貨の自由鋳造によるインフレ政策を主張。1896年民主党が銀本位制支持にふみきるとこれに吸収された。
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世界大百科事典(旧版)内の人民党の言及
【ポピュリスト党】より
…1890年代のアメリカで,西部と南部の農民を中心として結成された第三政党。人民党と訳す。長期的な農村不況,生産諸経費の高騰,鉄道・倉庫料金の独占的なつり上げ,通貨デフレ等に対する農民の不満の高まりが結成の原因であった。…
【イタリア】より
…イタリアはかろうじて戦勝国となったものの,戦後,これらの民衆の改革を求める運動が農民の土地占拠,工業労働者の工場占拠,都市民衆の反物価高闘争など多様な形態をとっていっせいに噴出した。また,ジョリッティ時代から徐々に政治参加を強めていたカトリックが,みずからの政党の結成にふみきり,19年に人民党をつくったのも注目されるできごとである。人民党はただちに社会党と並ぶ大衆政党となって,議会で大量の議席を獲得するが,それには選挙制度が小選挙区制から比例代表制に替わった事情も関係している。…
【インド[国]】より
…首相として1975年6月に発動した非常事態の期間中の,彼女およびその側近たちの法に基づかない行動が有権者の批判を浴びたのであり,言論への統制や野党の活動への制約にもかかわらず与党が敗れたことは,民主主義がインドに根付いていることを示すものであった。 第11回総選挙による獲得議席数は,インド人民党(BJP)161,協力する諸政党を合わせて187,会議派136,統一戦線112(両共産党44を含む)などであった。第1党となったBJPがまず組閣したが,下院の過半数の支持を受ける見通しが立たず間もなく辞職し,その後は会議派の支持を受けながら統一戦線が政府を組織している。…
【キューバ革命】より
…しかしこの襲撃は失敗に帰し,多くの者が殺されたり,捕らえられたりした。指導者のカストロは当時,人民党と呼ばれる改良主義的な政党に属しており,反乱に参加した百数十人の青年たちの多くも,キューバの中産階級に属していた。キューバでは1945年以来真正党が政権に就いており,この政府は,1940年に制定された,大土地所有の制限や農民の保護,労働者の地位保障,工業化などを定めた進歩的な憲法を実施するものとして期待されていたが,実際にこの政府のもとで行われたのは組織労働者の状態の若干の改善や,道路や住宅の建設といった程度にすぎず,農村の貧困は放置され,政府内には汚職や腐敗がはびこっていた。…
【タイ】より
…とくに〈スアパー〉と称する国王直属の疑似軍隊をつくって軍人の反感を買い,放漫な財政によって国家財政の危機を招くなどの失政は,のちに大きな禍根を残した。1925年王位を継いだ7世王[プラチャーティポック](在位1925‐35)は,財政再建に苦慮したが,世界大恐慌の発生という不幸が重なり,行政整理,官吏の減俸措置は伝統的な王族支配に対する批判を生み,ついに32年文武の若手官僚を中核とする人民党のクーデタ(立憲革命)が発生してタイの絶対王政は終りを告げた。
[立憲革命以後]
1932年以降のタイ現代史は,伝統的政治・文化と断絶のないままに,社会・経済的変化に適合する民主政治のあり方を模索した試行錯誤の軌跡である。…
【パホン】より
…1919‐21年には日本に留学,西郷隆盛に傾倒したという。若手将校の間で人望があつく,絶対王制打倒を目標とする文武の少壮官僚を中心とした秘密政治集団〈人民党〉の首領に推された。非凡な指導力のもとに32年6月の立憲革命(人民党革命とも呼ぶ)を成功させた。…
【バングラデシュ】より
…正式名称=バングラデシュ人民共和国Gaṇa Prajātantrī Bānglādés∥People’s Republic of Bangladesh面積=14万7570km2人口(1996)=1億2306万人首都=ダッカDacca(ダカDhaka.日本との時差=-3時間)主要言語=ベンガル語通貨=タカTakaインド亜大陸の東端に位置する〈水と緑の国〉である。ガンガー(ガンジス),ブラフマプトラ,メグナといった大河川の形成するデルタ地帯に広がるバングラデシュは,雨季にはその国土の大部分が水没する。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」