近代国家において,立法権をもつほか,予算審議権をはじめとする諸権能の行使を通じて国政一般にわたるコントロールを及ぼすことを任務とする合議体で,少なくともその一院については,選挙によって,とくに今日の立憲主義国家では普通選挙によって,議員が選出される。イギリスではParliament,アメリカではCongress,フランスではChambre,ドイツではVolksvertretungという。
合議体による政治決定という方式そのものの歴史はきわめて古く,部族社会の民会にまでさかのぼるが,近代議会の成立に重要なかかわりをもつのは中世身分制議会である。とくに近代議会発展史において他国に先がけた道をあゆんだイギリスでは,1965年に議会700年祭を祝ったことにもあらわれているように,中世身分制議会の伝統をひきつぎ,その発展という形で近代議会史がくりひろげられてきた。もともと貴族および庶民という身分の代表であったがゆえの貴族院と庶民院の二部会構成をひきついで,二院制というしくみが維持されているのも,そのあらわれである。それに対し,フランスでは,中世身分制議会と近代国民議会のあいだの質的な断絶が強調された。フランス革命は,革命前夜にいったん復活した,聖職貴族,世俗貴族,第三身分それぞれの身分代表としての三部会制を否定して,一院制の国民議会をつくりあげたのであり,その際には,国民が一つならばその代表も一つでしかありえない,ということが説かれたのである。このように,中世議会と近代議会のあいだの形式上の連続性を肯定するか否定するかで両国は対照的なのであるが,歴史的性格に見合う近代議会の構造は,イギリスの場合を含め,中世身分制議会とは明確に区別されるべき性格のものであることに注意しなければならない。
何よりも中世議会は,身分制社会の基本構造を反映し,それぞれの身分の利益を代弁する議員の集会であり,それゆえに,議員は選出母体による命令的委任によって拘束されていた。それに対し,近代議会においては,身分制的な社会編成が市民革命によって否定され,等質的な国民という観念が成立したことを前提として,議員は全国民を代表するものとされ,したがって,命令的委任に拘束されずに自由な討議をおこなうべきものとされる。そのような身分代表から国民代表への転換は,E.バークの言葉(1774)が示すようにイギリスでまずはじまったが,彼は,今や議会が〈全体としての利害を同じうする一つの国民の合議体〉となり,議員は〈選挙区を代表する議員でなく王国議会の議員〉となったのだ,と述べている。そのような転換がよりはっきりした形で打ち出されてきたのがフランス革命期であり,1791年憲法は,近代議会のひとつの核心ともいうべき国民代表の原理を実定法化した。なお,このような身分代表から国民代表への代表観念の転換は,同時にかつては諮問的合議体であった議会が,課税同意権を〈てこ〉として立法権を手中にし,一つの国家意思を形成するものとなったことにも対応している。
身分制議会との対比において上のような特徴をもつ近代議会は,しかし,近代初期と,のちに普通選挙制が成立する段階になってからとでは,その理念が同じでない。近代初期の議会のありかたを実定法化した一典型といえる1791年フランス憲法は,〈国民主権〉の原理を掲げるとともに,その〈国民〉から独立し,〈国民〉にかわって〈国民〉意思を形成する〈代表者〉として,議会(および国王)を位置づけた。議員の選挙にしても,〈能動市民〉だけに選挙権をみとめる強度の制限選挙であり,かつ,その有権者が〈選挙人〉を選出する間接選挙だったし,議員のひきつづいての再選を一回しかみとめない制度にしても,再選をのぞむ議員が有権者への〈追従者〉になるのを避けるためだということが強調されていた。こうして,命令的委任の禁止や議員の発言行動の免責は,身分利害から解放された議員の討論の自由を保障するという意味をもつと同時に,ルソー流の国民自身による直接決定,および,国民による議員のコントロールという思想を排除するものでもあった。そのような議会のありかたについて,シエイエスは,〈本当の民主制〉に対する対立原理であり,それよりもすぐれた原理だと述べていたし,コンドルセは,選挙民に対する議員の意見の〈絶対的独立性〉を保つことこそが,選挙民に対する議員の第一の義務だと説いていた。それに対し,のちに普通選挙(さしあたっては男子普通選挙制にとどまるが)が成立したあとの第三共和政の議会になってくると,実質上,選挙は単に議員を指名するという意味をこえ,再選されることをのぞむかぎり,議員が選挙民からのコントロールに服するということが積極的な評価をうけるようになり,議会は,選挙民の意思を反映しつつ決定をおこなうべきものとされることとなる。フランスの公法学では,このような段階に対応する代表原理を〈半代表制régime semi-représentatif〉と呼び,かつての議会のありかたに対応する〈純粋代表〉と区別する用語法がある。ともあれ,こうして,議会制は民主主義と原理的に対立するものではなくなり,〈議会制民主主義〉といういいかたが成り立つようになったのである。イギリスについていうならば,1832年の第1次選挙法改正による選挙権者の拡大以後,議会が〈法的主権〉をもつのに対し,〈政治的主権〉が選挙民の手中にうつっていく段階が,議会制民主主義の成立を意味する。その際,イギリスでは,二大政党制の伝統とむすびついて,下院選挙のときの〈選挙による委任〉が,政権担当政党のプログラムを選挙民の選択によって実質的に拘束する効果までが生じ,とくに首相による下院解散権の行使が,選挙民による裁決を促すものとして作用した。それにひきかえフランスでは,多党分立のため,また解散権不行使の慣行が第三共和政期に定着したこともあって,選挙民意思の反映は,選挙民と議会の関係までにとどまり,政権の所在とそのプログラムを実質的に拘束するところまではいかなかった。
普通選挙成立後の議会制民主主義の理念像は,つぎのようなものであった。国民の最大限の部分が,普通選挙制(ただし,婦人参政権を含めた普通選挙制は,イギリスで1928年,フランスで1945年まで実現されなかったことに注意)によって選挙人団として編成され,国民の間に存するさまざまの主張や利害が表現の自由の保障のもとで,議会に集約される。そのような選挙民から議会にむけての意思伝達の過程,および議会での自由な公開の討論の過程で,暫定的かつ相対的な意味での,つまり,つぎの選挙で修正される可能性のあるものとしての,正しい結論が生み出される(統合的機能)。他方で,そのような過程が公開され批判にさらされることをとおして,選挙民に,つぎの選挙での効果的な選択をおこなう可能性が提供される(啓蒙・教育的機能)。こうした無限軌道的な循環が円滑に機能していくことへの期待のうえに,〈最悪の議院Chambreといえども,最良の側近政治antichambreにまさる〉といわれるような,議会への信念が成立する。
権力の正当性の根拠である国民の意思を反映しているというたてまえのもとで,議会は国政機構のなかで,程度の差はあれ,中心的な地位を占める。議会が立法権の全部,あるいは少なくとも主要部分(行政権の側に立法の停止的拒否権がある場合など)を手中にするということ自体,国政機構における中心的地位を保障するが,それに加えて議院内閣制,とりわけ一元主義型の議院内閣制の構造が採用されている場合には,行政権をコントロールする議会の優越度はいっそう強くなる。議会制,あるいは議会政治という言葉には,広狭二つの意味がある。広い意味では,立法権の少なくとも主要部分をにぎる議会が存在する制度をひろく指し,専制政治,あるいは独裁政治に対する対抗概念として用いられる。狭い意味では,議院内閣制の機構によって行政権に対するコントロールを及ぼすことまでを含めて,議会が国政において決定的役割を果たす制度だけを指し,アメリカ型の大統領制は,そこから除外される。この狭義の使い方とほぼ重なるものとして,議会主義という言葉が使われることもある。
議会が民意の反映というたてまえを掲げつつ国政機構のなかで多かれ少なかれ中心的な役割を果たしていくためには,一定の条件が必要であった。それらのうち最も直接的な要素は,政党のありかたであり,議会運営を担う政党間の基本的同質性であった。19世紀中葉以後のイギリスにおける保守党と自由党,同世紀末以後のフランスにおける穏和共和派と急進共和派,アメリカの共和党と民主党の関係はそうであった。この時期の政党はまだ組織化がすすんでおらず,基本的にいって議員政党だったこととあいまって,政党の存在は,上述したような自由な討論による議会の意思形成をしばるものとはならず,かえって,選挙民意思と議会意思のあいだの相互循環関係をゆるい媒体となって確保するという役割を演じた。この時期の現実社会には,19世紀イギリスについてマルクスが描きだしたような,ブルジョアジーとプロレタリアートとのあいだのはげしい対立があった。にもかかわらず,しかも,普通選挙制と表現の自由の保障はそのような対立が議会にうつしだされるための法的可能性を提供していたはずだったにもかかわらず,議会のなかでは,もっぱらブルジョア的諸政党が支配的でありえたのである。
それに対し,第1次大戦後の西ヨーロッパ諸国では,議会内に組織性のつよい大衆政党が登場して,議員に対する政党組織の拘束がつよまり,同時に,労働者階級を代弁する政党が進出してくることによって,議会内政党の同質性が失われることとなった。こうして,自由な討論によって適正な結論を見いだし,少数派も,明日には政権交代によって多数となりうるという保障のもとで,多数決の結果に従うという図式はもはや成立しがたくなる。1880年代のイギリスで,合法的な議事妨害としての長時間演説に対抗するために,討論終結制(いわゆるギロチン)が採用されたが,与野党間に一定の同質性があるところでは,果てしなくつづく議論を打ち切って暫定的な結論を出すためという技術的効用を承認されるとしても,共通の基盤が失われたところでは,少数派の発言・批判を封ずる強行採決の手段となる傾向を免れない。こうして,ロシア革命の衝撃下におかれた西ヨーロッパ世界では,〈左〉からするコミュニズムの切迫感と,それに対抗しようとする〈右〉からの独裁を主張する勢力の拮抗のなかで,〈左〉〈右〉両側からの,議会制民主主義への批判・弾劾がつよまった。そうしたなかで,ワイマール共和国期のドイツでは,ひときわはげしく議会制論がたたかわされた。カール・シュミットは,〈議会制〉と〈民主主義〉のむすびつきをきりはなし,それどころか,その二つを相互排斥的なものとして位置づけ,議会主義への信念は民主主義でなく自由主義の思想界に属するとし,民主主義の名において議会主義を否定した。彼によれば,民主主義は議会によってではなく,国民の歓呼とアクラマチオAkklamatio(喝采)によって支持される独裁によってこそ,よりよく実現されるというのである。シュミットの反議会制論に対し,ケルゼンは,1791年フランス憲法流の議会制が民主主義と両立しないことをするどく指摘しながらも,それとは別に,民主主義によって現代議会制をあらためて基礎づけなおし,民主主義的要素をつよめることによって,議会制を改革--否定でなく--しようとし,人民投票や人民発案,政党を媒介とする議員へのコントロール,比例代表制などを,そのための有用な手段として位置づけ,議会制を否定することは,とりもなおさず民主主義を否定することになるとして,シュミット的な反議会制論に反論した。
議会制民主主義の危機は,議院内閣制の統治形態のもとで,まず,行政府を支えるべき議会多数派が安定的につくりだされなくなるために,内閣の弱体・不安定という形であらわれ,さらにまた,議会がその本来的任務である立法機能自体を円滑に果たすことができなくなって,行政府による立法(委任立法や緊急権にもとづく立法)が日常化してくる。このような危機は,1929年世界恐慌の衝撃のもとで30年代にいっそう深刻化し,ドイツでは社会民主党と共産党の非和解的対立にも助けられて,ナチスが選挙の結果第一党となり,議会制そのものを否定する独裁が成立した(1933)。フランスやイギリスも,程度の差はあれ議会制の危機に苦しんだが,議会制を放棄することはなかった(フランスのビシー体制は,第2次大戦緒戦の敗北によって外からおしつけられた独裁だった)し,アメリカは,ニュー・ディールによって危機に対応し,アメリカ的民主主義へのコンセンサスを維持しつづけた。このような各国の状況のちがいは,直接には,議会内政党の同質性の喪失の度合に比例していたが,より大きくいえば,それぞれの国が当面した経済的・社会的・思想的な危機の深刻さに比例し,また,議会制民主主義確立期に定着した政治的伝統のつよさに反比例するものだった。
第2次大戦後の西側世界では,なまなましいナチズム体験の直後だっただけに,議会制民主主義の枠組みそのものを否定する主張は有力でない。1949年の西ドイツ基本法は,憲法秩序に根本的に敵対する政党を違憲審査によって法的に排除する制度を定めているが,社会的現実として,一般に,60年代以降議会内政党の一定の同質性の回復が進行し,70年代に入って,強力な共産党をかかえたフランスを含め(イタリアも同様),複数政党を前提とした政権交代と再交代の原則を,左翼政党の側が積極的に承認するようになってきた。81年にはフランスで,第2次大戦直後の短期間を別にすれば,西側主要国として初めて共産党の政権参加が成立した。その反面,議会外から,既存の制度や組織をゆさぶる運動が,時として激発する(たとえば,1968年の異議申立て運動)。
なお,社会主義諸国や第三世界諸国でも,形のうえでは議会に似た合議体がおかれることが少なくないが,議会制は,歴史的存在としては,資本主義諸国のなかで,複数政党制と政治批判の自由の存在を前提として展開してきたものであり,両者のあいだには基本性格のちがいがある。
日本では,明治初期に,自由民権運動の中心課題として,国会設立の要求が出された。1881年に国会開設を約束する勅諭が発布されるのと並行して自由民権運動は退潮し,89年に大日本帝国憲法が発布され,90年に貴族院と衆議院から成る帝国議会が発足した。1925年には衆議院議員選挙についての男子普通選挙制が成立し,1924-32年にかけては〈憲政の常道〉の名のもとに,衆議院の多数派に基礎をおく政党内閣が実現したこともあったが,天皇を統治権の総攬者とする帝国憲法の基本原理のもと,制度上も,衆議院に対する貴族院の原則的対等性,天皇の勅令による立法の制度,予算審議権に対する制約,さらには統帥権独立の原則や,枢密院・重臣・元老などの存在によって掣肘(せいちゆう)をうけ,帝国議会の中心的地位を占めることはできなかった。1930年代には,軍部の政治支配が強くなり,議会は,帝国憲法の予定しているはずの役割すら果たすことができなくなった。
第2次大戦後の日本国憲法は,国会を,〈国権の最高機関〉(41条)として,文字どおり国政の中心的地位においた。国会は,いずれも普通選挙によって選ばれる衆議院と参議院から成り,〈国の唯一の立法機関〉として立法権を独占するほか,憲法改正の発議権,予算審議権をはじめとする財政上の権能,条約に対する承認権を含む外交上のコントロールを及ぼす権能,内閣総理大臣を指名し,議院内閣制による責任制のしくみを通じての行政権への監督権,裁判官に対しての弾劾裁判所を設置する権能,ひろく国政一般についての調査権(この国政調査権は,国会各院の権能とされている)をもち,とくに衆議院は,国会意思の形成にあたって参議院に対し多かれ少なかれ優越する地位にあるほか,内閣不信任案を可決し,または信任案を否決することによって,内閣に,総辞職か衆議院解散かの二者択一をせまることができる。
このように,国会は,現代の西側憲法のなかでも,優越的な法的地位を保障されているが,戦後における議会制の運用は,政権交代の欠如という点で,日本独特の様相を呈している。第1に,1947-48年の短い例外を別として,戦後日本では,保守党が一貫して政権を担当し,とくに55年の保守合同以後は,自由民主党の単独政権がつづいている。もともと,政権交代の現実的可能性を背景とした与野党間の緊張があってはじめて,選挙の際の有権者の選択も,議会における討論,とりわけ野党の批判による争点の解明も,実質的意味をもちうるのであるが,戦後日本の議会制は,まだそのような本格的体験をしていない(1970年代後半には,まず参議院,ついで衆議院で与野党間の議席差がしだいに減少していく傾向がみられた時期があり,89年の参議院選挙では初の与野党逆転となった)。第2に,55年以来政権を担当しつづけている自由民主党は,〈自主憲法の制定〉をたてまえとして掲げており,実際には党の主流的部分はこのスローガンの実現にむしろ消極的だとしても,おりにふれ,現行憲法への批判ないし非難が党内で高まるという状況がみられる。こうして,議会制民主主義の機能条件である,政党間対立の土俵そのものについてのコンセンサスを,与党のほうから破ろうとする力がはたらいていることも,戦後日本の議会制の特殊な様相となっている。
→議会政治 →国会 →帝国議会
執筆者:樋口 陽一
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民主主義国家における国民代表的性格をもつ会議体。議会は別名立法府(立法部)とよばれるように、その主たる権限は立法権にある。しかし、議会は国民代表的統治機関であるから、立法権のほかにも、国政に関する多数の重要な権限をもち、議会はいわば国権の最高機関としての地位を占めている。
[田中 浩]
議会はもともとは中世封建社会の胎内で生まれた等族会議(身分制議会)にその起源をもつ。しかし、近代議会の成立はイギリスの名誉革命(1688)を契機とし、今日イギリスが民主政治の母国とよばれる理由もここにある。以後、世界の他の国々はこのイギリスの議会制度や議会政治の実際を模範として民主主義国家を形成していく。
イギリス(当時はイングランド)で封建諸身分の代表が貴族院(僧侶(そうりょ)・貴族)と庶民院(騎士・市民)という二院(両院)制の形をとって初めて招集されたのは、遠く1295年のことである。このときの議会が史上、「模範議会(モデル・パーラメント)」とよばれるのは、その議会の構成にみられる国民代表的性格のゆえにであろう。
ところで、このような性格をもつ議会が設立されたことは、後のイギリスにおいて、他の国々よりも2世紀も早く近代国家が生まれる条件を準備するものとなった。なぜなら、議会政治の進行は、一方で国王がイギリス全体の政治状況を把握しつつ政治を行い、また庶民身分から広く税を徴収して政治を運営するシステムの成立を可能にし、それは近代国民国家の条件たる政治的統合と財政的基盤の確立へと向かう道を掃き清めるものとなったからである。他方で、議会政治の発展は、国王が議会の意志や議会で制定された法律(制定法)を尊重して統治すべしという「法の支配」の思想をイギリスで育成せしめ、そしてこの「法の支配」の観念がのちに国民主権主義と結び付いたときに近代民主主義国家が成立することになったからである。
事実、イギリスにおいては、14~15世紀の間に、議会は、立法機関としての地位を獲得し、また「承諾なければ課税なし」という形で課税権を主張するまでに成長した。そして、ピューリタン革命(1640~60)と名誉革命の二つの革命を通じて、イギリスは世界で初めて議会を中心とする近代民主主義国家の原型をつくりあげた。名誉革命の意義は、ロックがその『政治二論』(1690)において理論化したように、一つは、立法機関たる議会を国権の最高機関としての地位につけたこと、二つには議会と国王との関係において、立法部の行政部に対する優位を決定づけたこと、三つには悪い統治機関(立法部であれ行政部であれ)は変更してもよい、という考え方を政治制度のうえで現実化したことにある。内閣が議会に責任を負って政治を行うという政治運営上のルール、したがって議会の信任を失えば内閣は総辞職するか、議会を解散するかして主権者である国民の判断を問う、という国民主権の原理や、責任内閣制・解散制度を軸とする議院内閣制の原型は、ほぼこの時期に登場したものとみてよいだろう。
そして、その後、18世紀中に国王のもつ行政権が、国会議員から構成される内閣の手中に移行したことにより、また18世紀中ごろ以降に始まった選挙権拡大の努力の結果、ついに1928年に成年男女の普通平等選挙制が実施されたことにより、さらには、民選議員からなる下院(庶民院)の権限が、非民選議員からなる上院(貴族院)の権限に対して絶対的に優越することが確定(1911)したことにより、イギリスの議会政治と民主政治は着実に伸張していったのである。
[田中 浩]
ところで、議会が近代国家における最高の統治機関、最良の政治形態といわれるまでの地位と評価を獲得するに至った理由は何か。まず第一に考えられる点は、議会が市民革命期に国民代表の理念を高く掲げて登場したことによる。
イギリス市民革命期における最大の思想家ホッブズやロックは、国家の最高権力は立法権のなかにあり、また、立法権をもつ国民の代表者(ホッブズでは主権者とよばれている)や立法機関(ロックでは議会)の設立に際しては国民の同意があったといういわゆる「社会契約」の考え方を展開している。そして、この思想こそ、国王の専断的意志による統治=「人の支配」を否定して、国民代表の制定した法による統治=「法の支配」を主張したものであり、ここにイギリス議会の国民代表的性格が理論化されたのである。
もっとも、イギリスやフランスの市民革命の勝利によっても、なお、選挙・被選挙権の資格は一部の「財産と教養ある人々」(M・ウェーバー)に限定されていた。そのため、ペインは『コモン・センス』(1776)においてイギリス議会の非民主的性格を批判したし、ベンサムやミルも選挙権の拡大や普通選挙権の実現を主張したのであった。そして、この問題は、19世紀以降、各国でその実現のための努力が続けられ、20世紀中葉ごろまでに普通選挙制が実施されることによってようやく議会は真に国民代表的性格を獲得するに至り、こうして現在では民主政治といえば議会政治と同一視されるまでになった。
次に、議会が近代民主主義国家に適合的な制度として歓迎された理由は、議会の場において国民代表が「審議」「討論」を重ねて立法・政策の大綱を決定し、またその「審議」「討論」のプロセスが国民に対して「公開」されるということを議会制民主主義が制度的に保障したためである。絶対王制の時代には、政治的決定はほとんど国王の専断的意志により、またその決定は当然に秘密裏になされた。したがって、この「討論」と「公開」という議会政治の原理こそ、「言論の自由」や国民の政治参加を基調とする近代民主政治の精神と合致するものであり、各国において議会制度が定着していった理由はここにある。
[田中 浩]
以上に述べたように、近代以降、各国において議会の制度的確立による民主政治の発展がその共通の目標となったが、近代議会の成立当初から議会政治に対する批判がないわけではなかった。初めは、議会の構成が国民代表的性格を欠く、というものであった。制限選挙の時代には、議会に代表される者たちは有産者層に限られていた。そこで、議会は特殊利益を代表しているにすぎないと非難され、このためルソーは『社会契約論』(1762)において、「一般意志」(国民的利益)はなにものにも代表されえないと述べ、制限選挙制下にある当時の議会のあり方を批判し、人民主権的考え方を提起したのである。このような議会に対する不満は、その後、選挙権の拡大を通じてその解決が図られていく。
しかし、議会政治に対するより強力な批判は、資本主義的生産方式それ自体を非難し、その変更を迫った社会主義者たちの間からおこった。19世紀から20世紀初頭にかけてしだいに選挙権が拡大されたにもかかわらず、各国議会で多数を占め政権を担当した政党はほとんど資本主義擁護の立場をとる政党であったから、社会主義者たちは、議会はブルジョア階級の利益を図る機関、また階級支配の道具であると規定し、それを打倒してまったく新しい政治形態を構築する必要がある、と主張したのであった。そのためソ連の最高会議(ソビエト)、中国の人民代表大会などの最高議決機関にみられる代表選出や政治運営の方式には、資本主義国家の議会制度とはきわめて異質なものがある。ここでは、代議員は、労働組合、農業団体、文化団体などから推薦され、自由に立候補することはできない。また、複数政党制によらず共産党一党による政治運営が行われている。これは、真に国民代表的な統治機関が選出されるならば一党制のほうがよい、という考え方にたつものといえよう。したがって、今日の世界では、議会制度と社会主義型政治制度の二つの政治制度が併存しているのである。
議会政治に対するもう一つの批判は、1920~30年代にドイツ、イタリア、日本などに出現し、第二次世界大戦の終結によって崩壊したファシズム国家の側からなされた。これらの国々は、一方では欧米列強に対抗し、他方ではソビエト社会主義の脅威に対処するために、全体主義的な権威国家の確立を目ざした。そこで、ファシズム国家においては、階級対立を激化させ国家的統一を乱す社会主義政党の存在を許しているような議会制度は否定されるべきであるという議会敵視の思想が台頭した。そして、議会制にかわるものとしては、たとえばドイツの政治学者C・シュミットは大統領の独裁を主張している。この際、彼は、「討論」と「公開」という議会制の原理はもはや形骸(けいがい)化し、国民の運命を決定するような重要問題は、大資本家、上層官僚、政党幹部、軍幹部の間で事前に秘密裏に決定されているから、議会は無用であるとして議会制度に死亡宣告を下したのである。この批判は、一面では現代議会政治に対する正しい批判を含んでいたが、ファシズム国家においては国家的統一という名目の前に人権がまったく無視され、軍国主義と侵略主義が鼓吹されたため、これらの独裁国家の行動は第二次大戦勃発(ぼっぱつ)の因となり、結局、世界の多くの民主主義国家によってファシズム国家は打倒された。
こうした社会主義やファシズムの側から提出された議会否定論に答えるものとしては、イギリスの政治学者でかつイギリス労働党の理論家でもあったラスキの社会民主主義論がある。彼は、議会が多くの場合「資本の論理」によって行動している事実を批判しながらも、議会政治が、かなりの程度定着した国々においては、暴力革命によって新しい政治制度を構築することには犠牲が多すぎるとして、ましてやファシズム的独裁国家は論外としてこれに反対し、議会改革の方向を模索している。そして、議会に社会主義的改革思想をもった多数の代表者を送り込むことによって、特殊利益を代弁している議会を、国民的利益に奉仕させるように構造転換すべきであると提案しているのである。
いずれにせよ、ファシズムとの闘争を経験した第二次大戦後の各国においては、安易な議会否定は独裁制を招く危険性があるという認識が広範に生まれた。このことは、高度に資本主義が発達した国々における共産党の議会観にも変化を与えることになった。そして今日では、各国共産党は、かつての暴力革命論やプロレタリアート独裁論を放棄して、国民多数の同意と支持を獲得しつつ、議会制民主主義の政治運営の枠のなかで平和的に社会主義への道を実現していく方向を追求している。
[田中 浩]
日本においては、明治維新(1868)後20年ほど経過したのち、大日本帝国憲法発布(1889=明治22)とともにようやく議会制度が導入された。しかし、大日本帝国憲法では、イギリス型議会制民主主義よりもドイツ型君権主導主義を採用し、天皇が統治権の総攬(そうらん)者であるとされていたため、帝国議会は天皇の立法権を協賛する機関という地位にとどめられていた。また議会の構成についても、民選の衆議院のほかに、衆議院の行動を抑制する非民選の貴族院が設けられ、また議院内閣制も憲法上、明文化されていなかったため、第二次大戦前の日本では健全な議会政治が発達しなかった。
しかし、戦後の国民主権主義にたつ日本国憲法では、天皇の地位は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)とされ、天皇は国政に関する権限はもたなくなり、かわって国会(議会)が「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」(41条)としての地位についた。また、かつての非民主的な貴族院は廃止され、衆議院と参議院はいずれも、男女平等の普通選挙権を獲得した国民によって選出された代表者から構成され、議院内閣制も憲法上、明文化された。ここに日本の議会は真に国民代表的性格を備え、その議会政治も議会制民主主義の名に値するものとなった。なお、国会は国権の最高機関であるから、立法権だけではなく、財政に関する権限(予算・決算の議決、課税に関する議決など)、条約承認権、行政部監督権(内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議権など)、国政調査権、憲法改正発議権など、国政に関する広範な権限をもっている。
[田中 浩]
以上に述べたように、戦後、日本の議会政治は大きく発展した。しかし、実際の政治運営の面ではいまだに数多くの問題点が残されている。議会政治は「多数決制」によって運営される。この多数決の手続においてもっとも肝要なことは、議会においてどこまで十分な審議が尽くされ、またその際、少数意見がどれほど尊重されたか、という点にある。つまり、「数」の政治においては、「量」の多少だけでなく、その「質」の高さが問題なのである。この点からみるとき、戦後日本の政治においては、とかく形式的な「数の論理」によって重要な政治決定がなされてこなかったであろうか。
また、議会政治に関してもう一つ重要なことは、議会に国民の意志が十分に反映されているかどうかという点である。これについても日本の議会政治は国民不在のところでその運営がなされている傾向が強いように思われる。かつてルソーは、イギリス人は自由であると思っているかもしれないが、それは選挙のときだけであって、それ以外のときには奴隷状態に置かれていると述べて、イギリスの「議会」と「国民」との間の断絶状態を痛烈に批判している。したがって、日本の議会政治においても、形式的な「数の支配」が依然として横行し、「国民不在の政治」がこのままの状態で続くときには、議会制民主主義の名のもとで、実は日本国民は奴隷状態に置かれていることになり、国民主権主義の原理は形骸化することになろう。
[田中 浩]
『田中浩著『ホッブズ研究序説 近代国家論の生誕』(1982・御茶の水書房)』▽『C・シュミット著、田中浩・原田武雄訳『大統領の独裁』(1974・未来社)』▽『田中浩著『カール・シュミット』(1992・未来社)』
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…アメリカ英語【青柳 清孝】
【政治】
[連邦憲法]
アメリカ政治の基本的枠組みを構成しているアメリカ合衆国憲法Constitution of the United States of Americaは,各州憲法State Constitutionに対して連邦憲法Federal Constitutionともよばれ,世界で最も古い,寿命の長い成文憲法である。アメリカ大陸のイギリス領諸植民地は,18世紀後半本国との抗争を通じ,イギリス憲法が不文憲法であることから,その解釈があいまいであり,議会の立法によって容易に変更されやすく,その結果,人民の自由と権利とが脅かされる危険が多いと考えた。そこで各植民地の独立とともに,1776年のバージニア憲法をはじめ,権利の保障と政府の構造とを明文をもって規定した各州の成文憲法が制定されたのである。…
…しかし,この国の歴史におけるイングランド勢力の膨張にともなって,イギリスという呼称は地域のうえで,〈イングランドとウェールズ〉,スコットランドを含めた〈グレート・ブリテン〉,さらにはこれにアイルランドを含め,また次にこの国の海外植民地獲得に応じて,〈大英帝国〉(あるいはイギリス連邦)までを含む広範な地域をさして,無差別な,漠然かつあいまいな使われ方をしている。そして幕末開国以来の日本人のイギリス観を支配したのは,日本と同じこの小さな島国の強大化の理由を探ろうとする視角であり,植民地帝国,〈世界の工場〉,立憲君主制の下での議会政治,ジェントルマンの国といったイギリスのイメージが日本人に定着していった。 しかしながら,かかるイギリス観の基底には,二つの誤解が存する。…
…議会構成の一つの型で,国民代表より成る単一の合議体だけで議会を構成する制度をさし,二院制と対比される。一院制が初めて採用されたのは,1789年のフランス革命議会においてであった。…
…一般的には議会と呼ばれる国の機関のことで,この言葉自体は明治期にも用いられた(〈国会開設〉請願運動等)が,日本国憲法(1946公布。以下原則として憲法と略す)によって議会を指す公的名称となった。…
…国民がみずから選んだ代表者の組織する機関,すなわち議会を通じて,間接的にその意思を国家意思の決定と執行に反映させる統治形態。間接民主制とも呼ばれ,直接民主制に対立する。…
※「議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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