タイの軍人、政治家。1924年国防省留学生として渡仏。1932年陸軍少佐として絶対王制打倒の立憲革命に参加した。1934年国防相に就任、好敵手プリディの率いる文民派と抗争。1938年第一次ピブン内閣を組閣、国名をシャムからタイと改めた。1942年(昭和17)日本と防衛同盟を締結、戦況悪化に伴い1944年失脚。1945年戦犯として逮捕されるが1946年釈放され、1947年プリディ派打倒のクーデターに成功、1948年首相に就任。反共親米路線によって地位強化を図り、1954年には東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))発足にも尽力。1957年サリット元帥によるクーデターで失脚、1964年(昭和39)亡命先の神奈川県で客死した。
[黒柳米司]
タイの軍人政治家。本名プレーク・キッタサンカ。士官学校卒業。1924年から約3ヵ年のフランス留学中,プリディらと絶対王政打倒を目的とした政治グループを結成し,32年の立憲革命への布石をおいた。立憲革命から57年まで第2次大戦後の一時期を除き実質的にタイ政界をリード,〈永遠の宰相〉の異名どおり,その間に8期15年間の長きにわたり政権を担当した。国名のシャムからタイへの変更,国歌の制定,国産品愛用運動などを内容とする12項目の〈国民信条〉を発布したのをはじめ,民族国家意識の高揚に努め,国民統合という課題に挑戦した。戦後はいち早くアメリカの反共政策に目をつけ親米外交を展開,その後のタイの外交路線を方向づけた。ただ,長期政権の裏には政敵に対する強い弾圧が存在し,それに対する反感が暗殺未遂事件を何度も引きおこした。57年部下のサリットのクーデタにより日本に亡命,客死した。
執筆者:赤木 攻
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…その営みの困難さは立憲革命後の30年間に繰り返された憲法の改廃が,実に20回を超えるという事実のなかに明らかに示されている。38年までの6年間は,人民党内部における武官派勢力がしだいに増大し,その領袖に推されたピブンが権力を掌握していく過程である。首相の地位についたピブンは,伝統的な国名〈シャム〉を廃し,これを〈自由〉を意味する〈タイ〉に改めるとともに,近代国家の建設を目標に次々と国家主義的政策を打ち出した。…
※「ピブン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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